きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2002.12.1()

 日本詩人クラブ札幌イベントは昨夜で終り、今日は原子修さんの案内で本郷新記念札幌彫刻美術館と大倉山ジャンプ場の見学に行ってきました。本郷新は未知の彫刻家だったのですが、横浜の馬車道にも六本木交差点にも作品が設置されているのですね。意外と見ているのかもしれません。
 大倉山はテレビで観ているときはかなり広いイメージを持っていたのですが、意外に狭かったので驚きました。併設されている「ウインタースポーツミュージアム」というのが有名らしいのですが、そちらは時間の関係でパス。展望ラウンジで札幌の街を堪能してきました。

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レストラン「Kポイント」にて

 写真は昼食を採ったレストランです。札幌の街並みを眺めながらのワインは最高でした。逆光が強過ぎて、補正もしきれなくて、まともな写真じゃありませんけどご容赦のほどを。その方がアラが見えなくて良いかな^_^;
 今回は原子修さんに本当にお世話になりました。ご自身のお車で、これだけの人数を何度も往復して案内していただきました。改めてお礼申し上げます。



沼津の文化を語る会会報『沼声』270号
syosei_270
2002.12.1 静岡県沼津市 望月良夫氏発行 年間購読料5000円

 5万2千5百/影嶋芳夫
 標題の数宇は三省堂発行のコンサイス「カタカナ語辞典 第2版」に収録のカタカナ語数4万5千、アルファべット略語数7千5百の合計である。
 これさえあれば日本経済新聞を完全に理解できる≠ニのお墨付きに誘われ求めたが、その函帯に大きく示されていた。
 因に同書店発行の「新小辞林 第2版」の収録語数は5万1千、そしてこのなかには日本語化?したカタカナ語が含まれている。
 20数年前、民生委員協議会の席上でカタカナ語の多い書類に呆れ果て、福沢諭吉の事例を挙げて批判した慶大出の長を思い出す。とにかく判らねば仕方なく、私にとって外来語辞典はずっと不可欠のものだった。
 「声に出して読みたい日本語」を皮切りに書店は日本語本が目白押し、カタカナ語は存在しないかのようだ。しかし現実はカタカナ語だらけ、2冊の辞書の語数差に、思わずカタカナ語に征圧された日本語の行方を想像し、首を竦めざるを得なかった。

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 一出版社の、一「カタカナ語辞典」と一国語辞典の話なのですが、その差異には確かに驚かされます。片や52500、わが日本語は51000と、数の上では負けているのですからね。私も20代の頃にはカタカナ語の使用が多かったと思います。それはやはり格好いい≠ニいう意識からだったと白状しましょう。工業英語の翻訳で、どうしても日本語に置き換えられなかったものもありましたけど、それでも10語もなかったでしょう。
 「カタカナ語に征圧された日本語」の片棒を担いでいたのかもしれませんけど、今は日本語で表記できるものはなるべく日本語にしています。カタカナ語が氾濫すると、それに対する反発という意識もありますが、若き日への反省という意味もあります。



牧野京子氏詩画集『曲がり角』
magarikado
2002.1 東京都練馬区 私家版 非売品

 人生のコーヒータイム

朝のコーヒーは夫がいれる
きのうは娘の結婚式
いつものようにコーヒーカップを並べ
娘のいないことに気づいた夫
香りは いつもの朝と変わりなく
食卓の上を流れていく
朝のコーヒータイム

午後のコーヒーは妻がいれる
家の中の仕事が終わって
妻はひとりカップをかたむける
一杯のコーヒーを飲むとき
長い間働いてきた生活が消え
自由のときがとりまいて
妻は口ずさむ
〈ケ・セラ・セラ・・・〉と
人生のコーヒータイム

息子は夜中にコーヒー豆をひく
悪魔のように快い響きは
若い欲望をたぎらせ
滴り落ちる黒い液は彼の脳裏を刺し
真紅の香りが部屋に漲る
真夜中のコーヒータイム

 著者の詩に夫君の絵が添えられている詩画集です。詩も絵も楽しめました。紹介した作品はそんなご家庭の様子が窺えて、心温まるものを感じます。そんな中にも「娘のいないことに気づいた」寂しさがさり気なく表現されていて、人生の深さを感じさせてくれます。素直な視線の作品が多い詩集だと思いました。



詩誌『あかぺら』8号
acappella_8
2002.11.15 滋賀県守山市
徳永遊氏発行  非売品

 花/山本英子

その冬 日本海に落下していったハナさんの遣体はついに上がらなかった。事件とも事故とも自死とも知れぬまま マスターをはじめ私たちは三年待ち そしてきりをつけることにした。
カウンター横にかかっていた「花」という字の額をはずしたのは私だ。
行きずりの日本人がコースターの裏に書いてみせた何げない漢字 その文宇を追ってハナさんはこの国に来た。
(こんな美しい文字を見たことがありません)
ハナさんは私たちよりも美しく日本語を発音した。
(こんなに美しい文字はありません)
葬儀という段になっても 私たちはハナさんの出自も国籍も本名すら知らなかった。灰色の髪とさみしい忘れな草色の目 骨相は流浪の民族の血を想わせた。写真を撮られることを何故か拒み 残っていたのはバッグと着替えだけだった。パスポートもない。
だれ言うこともなく 千枚の折り紙に「花」という字を書き ハナさんの大切にしていたコースターと共に海に撒こうということになった。
(なんてきれいな文字でしょう)
ハナさんの声がちぎれていくような寒い日 私たちは岸壁に立ち マスターが乗るへリコプターを待った。
へリは大きく三回旋回すると雪より光るものを投下した。瞬間それは炸裂し発色し 数秒間冬の空に「花」という字を形取って燃え そして海に落ちていった。

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 大人の童話と言ったら良いのでしょうか、不思議な作品です。そして「ハナさん」「マスター」「私たち」の存在感があります。小説では強く言われている存在感≠ネりリアリティー≠ェここにはあるように思います。この詩誌にはこういう手法の作品が多く、全員が新しい詩の流れを模索しているようにも感じられました。



詩誌『しけんきゅう』139号
shikenkyu 139
2002.12.1 香川県高松市
しけんきゅう社発行 350円

 地下鉄/倉持三郎

ピカデリーサーカス
空いている席をみつけ
すこし勇気を出してすわり
ひじかけにそっと腕をおろす
向かい側からの視線に負けないように視線をかえし
窓にうつる自分の姿をさがす

肩をあらわにした中年女性の青い目はまたたきしない
縮れた髪の黒人の目が怒っている
脚を前につきだした
黒ひげの男のターバンはにこりともしない
うす紫のサリーを肩からたらした女性の
額の真ん中の赤い丸い目

へそ丸だしの若い金髪の女性
白い肌のへそだけはおだやかな表情だ

グロースタロード
席からはみ出すような亜麻色の髪の大男が
持っていた紙袋からつまみはじめる
かりかりと音をたてる
食べおわるとびんをあけ蓋はちょこっと窓際にのせて
ラッパ飲みをはじめ一気に飲み干す
その間中目だけは緊張している
腹がみちたからといってなごむ表情はない
戦うための準備ができた

車内の空気だけが震える
席に座った乗客は沈黙して
正面を見るだけ
相手が切り込んで来る瞬間を察知できるように
目をはなさない

アールズコート
車内の空気だけが緊張にたえきれなくなってさけびだす

 よく観察しているなと思いました。特に「腹がみちたからといってなごむ表情はない/戦うための準備ができた」というフレーズはさすがですね。人間ひとりひとりへの観察と同時に、その国の置かれている立場も考慮しないと出てこないフレーズだと思います。それにしても恐ろしい国。日本のように「地下鉄」の中で居眠りなんて出来ませんね。そんな国情への批判として拝見しました。



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