きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2002.12.7()

 日本詩人クラブ現代詩研究会が行われました。今年最後の作品研究ということで、参加者は14名、提出作品は9編でした。いつもなら、私は余裕をもって写真を撮ったりしているんですが、今回は良い作品が集って、ついついそちらに夢中になって、写真を撮るのを忘れていました。会も終り頃に気付いて、皆に集ってもらって撮ったのが下の写真です。

021207

 考えてみたら、こうやって講師を囲んで撮った写真というのはありませんでしたね。怪我の功名でいい記念ができたと思います。ちょっと暗いですけどね。
 皆さん、また来年も素晴らしい作品を見せてください。



小林憲子氏詩集『島を探しに』
shima wo sagashini
2002.12.10 東京都千代田区 花神社刊 2300円+税

 島を探しに

明るい太陽を避け
兎のように 赤い眼をして
日蔭を探す

なんという遠い空だろう
空の蒼みから
生暖かい風が降りてくる
白々と乾いた心が
雨季近い
海沿いのまちをさまよう

 カレンダーのいらない粗々しい時よ
軽い狂気を秘めている時よ
流れる雲を追いかけて……

わたしは
探しにゆく
潮騒が近づき
海への坂道を下りながら
小さな 小さな
わたしの
島が現われるまで

 詩集のタイトルポエムです。「わたしの」「島を探しに」行くというこの象徴は、著者の詩への態度であり生活への臨み方だと思います。それは「明るい太陽を避け」「日蔭を探す」ことであるかもしれないけれど、それは決して敗北≠ナはない。「白々と乾いた心」ではあるが、単に「カレンダーのいらない粗々しい時」「軽い狂気を秘めている時」を拒否しているだけだ、と読むことができます。解説で鈴木亨氏は「作者は平和な生活者の、望ましい典型を溌剌と生きている」と書いていますが、まさにその通りだろうと思います。安定した作風の、心あたたまる詩集です。



山中以都子氏詩集『雪、ひとひらの』
yuki hitohira no
2002.12.1 神奈川県横須賀市 山脈文庫刊 2000円+税

 雪、ひとひらの

 遠い日、山裾の小径の枯れた草むらに、小
径によりそうように流れていた痩せた川面に、
くぐりぬけた楓のトンネルのからみあった細
い梢にもしんとひそやかに息づいていた、哀
しみにも似たひとひらの雪。あるいは、苔む
した墓石の文字の窪みに、跪いて祈る髪に、
うなじに、爪の先にもひととき留まり消えが
てに滑り落ちていった、ためいきにも似たひ
とひらの雪。そうして、動き始めた電車の窓
ごしに手をふりながら遠ざかっていった黒い
コートの肩先にあわあわとふるえていた、啜
り泣きにも似たひとひらの雪。
 ――今日、ひとりの窓に舞う雪の地にさえ
着けず消え果てるのを、あれがわたくし、あ
れこそがわたくし、と息を殺してみつめなが
ら、空にただようたまゆらを命傾けかがやけ
とさしのばす指をかすめて雪、ひとひらの。

 「雪の地にさえ/着けず消え果てるのを、あれがわたくし、あ/れこそがわたくし」と己を規定する著者。「ひとひらの雪」にさえ、これだけの思いを託す詩人を、私は知りません。そこに至るまでの「ひとひらの雪」の数々を、こうまで繊細に視覚的に記す詩人をも、私は知りません。本年度抒情詩の最高傑作と言っては言い過ぎでしょうか。決して過言ではないと思います。
 前詩集から6年。この6年間のほとんどの作品が収められているのではないかと思います。全25編。それら総てを紹介したいところですが、それを抑えてタイトルポエムのみを転載しました。機会がありましたら前作品をお読みいただければ、と思う詩集です。



会誌『雲雀』2号
hibari 2
2002.11.15 広島市佐伯区
広島花幻忌の会事務局発行 800円

 ご存知の方が多いかもしれませんが「花幻忌」とは原民喜の命日です。広島の原爆ドーム東側には原民喜の次の詩碑があります。

 碑銘

遠き日の石に刻み
砂に影落ち
崩れ墜つ天地のま中
一輪の 花の幻

 「花幻忌」はここから採っているそうです。海老根勲氏の「記録者の眼・詩人の魂」という論文には「花の幻」とは「紛れもなく妻の姿である」とありました。
 この会は原民喜に限らず、峠三吉・原爆文学・平和論などを総合的に論じようとする集りのようです。中でも私の目を惹いたのは「青空文庫」の藤本篤子という方の報告です。これもご存知の方が多いと思いますが「青空文庫」は著作権の切れた文学作品をインターネットで発信しているHPです。現在、収録作品2000を超えているそうです。私のこのHP、日本ペンクラブの電子文藝館は「青空文庫」を非常に意識して開設しました。
「青空文庫」では、従来の掲載方法ではなく「原民喜プロジェクト」を組んで、この8月6日に公開しているようです。興味のある方はそちらもご覧になるといいですね。



詩誌『火皿』101号
hizara_101
2002.11.30 広島氏安佐南区
火皿詩話会・福谷昭二氏発行 500円

 辻堂/福谷昭二

村境の道の
間道の峠を登った小さな道の
いま 往還から外れて脇道となった
古い時代の道の傍ら
ひっそりと立つ四柱の簡素で傷んだ辻堂

早魅には雨を請い 霖雨には晴れを祈る
心に叶わぬ苦しみや悩みを逃れて祈る
一握りの散米を供えて
行き来する人の一夜の仮泊
行き倒れた人の一時の収容所
村人はその度に湯茶を接待する
棚に紀る小さな仏たちの縁日
ささやかな賑わいが演出される
子どもの遊び場
村の若者の束の間の逢う瀬

山や田の厳しい仕事の行き来や合間の憩い
時には一揆の謀をめぐらす公然の場
虫に食われ 時には焼かれ 捨てられ 壊された
木造の仏たち
時代の度に修理した村人の稚拙な技術
迸る素朴な信仰の痕が刻まれる
さまざまな役割を賑やかにこなし
ながい世代を超えて祀り継ぎ 語り継いできた
古い建物の情念
いま時の流れのなかで燃えながらたっている

 ああ、そうだったのかと改めて思いました。「行き来する人の一夜の仮泊」「行き倒れた人の一時の収容所」「時には一揆の謀をめぐらす公然の場」。そういう使われ方をしていたのですね。現代では公民館などがそれにあたるのでしょうが「木造の仏たち」はありません。公民館とは違った、もっと精神的な拠り所に近かったのでしょうか。八百萬の神を想起しました。総てに神が宿るという「古い建物の情念」をも感じさせてくれます。日本の良いところを再認識させてくれた作品です。



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