きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2002.12.10()

 埼玉の業務依託会社に出張してきました。しばらく前から起きている故障が直らず、業を煮やして現地に乗り込んだ、という恰好です。もっと早く行きたかったのですが会社同士の関係もありますから、そうそう乗り込むわけにもいかず、今日まで我慢していました。
 行って良かったと思います。工程を視察して気付いた点がいくつかありました。日常的な作業の中ではなかなか気付かない点かもしれません。私のような第三者が見るというのは、そういう意味があると思います。私が発見した現象が原因かどうかは検証が必要ですけど、おそらく8〜9割の確率で当っているでしょう。
 でも、シンドかったなぁ。20時過ぎまで工程視察や会議をやって、ようやく最終の電車に乗ることができました。下手をすると泊りになるところでした。そこまで時間が掛かるとと思っていませんでしたから、泊りの支度はしていません。今度からは泊りも視野に入れておく必要がありそうです。



詩誌『きょうは詩人』6号
kyo wa shijin 6
2002.12.13 東京都武蔵野市  500円
きょうは詩人の会・鈴木ユリイカ氏発行

 靴入れ/長嶋南子

――いいなあ これから三十年以上も働けるなんて
初出勤の朝
上司が靴入れのまえでいう
給料表の順に上から
名札かつけられている
もちろん一番あと
ついきのうのような気がする

転勤のたびに靴入れは
アイウエオ順だったり
着任順だったり

ハイヒールをはいて五年
スニーカーで十三年
夏はサンダル冬はブーツで
あとはずっとローヒール
どの靴も外側からへっていく

あれから三十年
うそだろう
うそじゃない
就職したのは
ついきのうのような気がしながら
やめていくんだな

四月
新任の同僚が
靴入れのまえに立っている

 私の定年にはまだ6年余りありますけど「うそだろう」という感じはよく判ります。でも「いいなあ これから三十年以上も働けるなんて」と言う「上司」の言葉は判りませんね。仮にこれから30年も働くとしたらゾッとします。定年まで10年を切ったときに、ようやく自分のやりたいことに時間が使えると喜んだものです。
 「どの靴も外側からへっていく」というフレーズ、最終連のまとめ方などはさすがだなと思います。こういう視線のズラせ方は勉強になります。



詩・創作・批評誌『輪』93号
wa_93
2002.12.1 神戸市兵庫区
輪の会・伊勢田史郎氏発行 1000円

 誰かに/倉田 茂

たとえばがん性の痛み その痛みを
知ってもらいたい 誰かに
だがからだの痛みは主観だから
ひとり鎮痛薬に親しみ
潮のようなその干満に耐えねばならない

こころの痛みも主観であるが
この分野には薬などないので ひたすら宥める
ときに逆さの視点で眺める 痛みの逆読みは
「見たい」であった−そう、自分を眺めてみる

ホスピスで日を送る人の多くは
誰かに しっかりと聞いてもらいたいという
長いあいだ手がけてきた自分の仕事を
それが人々に役立ったのだと確認するために

痛い痛いとこころが訴えるとき
私なら 眠られぬままに何かを書いてきた
机とワープロと少しの本がある家の片すみは
ホスピスだろうか
出来上がるごとに 誰かに読んでもらってる
ああ 痛みが伝播した言葉を

書くというのは
(あぶ)り出しのように出てくる自分と
せつなく対面することだが
それを読む他人がいると思うともっとせつない
だがそうしなければ見えない人間の営みや世の流れを
見ないわけにはいかない
世界は表現する言葉のなかにしかないのだ

近未来 こころの痛みを取る薬が現れたとしよう
人はもう 誰かにむかって書くすべをうしない
地上は笑顔笑顔の菜の花におおわれるだろう
よく見れば仮面の群衆のようでもある

 書く≠ニいうことの本質を鋭く突いた作品だと思います。まさに「世界は表現する言葉のなかにしかないのだ」と言えましょう。そうでなければ「地上は笑顔笑顔の菜の花におおわれるだろう」けれど、それは「よく見れば仮面の群衆」であるという指摘は重要でしょう。デフレ、リストラ、表現の制限、憲法の改悪と続く現在の日本において、デモのひとつも起きない現状は、すでに「仮面の群衆」になっているのかもしれません。そんなことまで考えさせられた作品です。



鬼の会会報『鬼』366号
oni_366
2003.1.1 奈良県奈良市
鬼仙洞盧山・中村光行氏発行 年会費8000円

 横山大観の酒
 六十代半ばから、ほとんど飯を食さず一日に飯茶碗半分ぐらい、それも次第に減少して朝何粒かになった。食べ物は一切とらず、カラスミ、ウニ、小さな目刺しとか、それも少量で栄養は酒のみです。一日七合と決めた時代があったが、それは自宅で一人飲む量で、会合などでは持参の酔心を、来客があれば量が増えました。広島から酔心が送られ礼に絵一点を送り、酔心美術館がつくられたほど。

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 連載エッセイ「鬼のしきたり(55)」の一文です。横山大観がそれほどの呑み助だとは知りませんでした。しかし、さすがに目が高いですね。「酔心」は私も好きな酒のひとつです。それにしても「一日七合」とは! 「来客があれば量が増えました」とありますから、二升、三升の日もあったということでしょうか。「栄養は酒のみ」というのですから、そうなってしまうかもしれませんね。そこまでは呑めない…。



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