きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科 |
2002.12.14(土)
日本詩人クラブ12月例会・忘年会が神楽坂エミールでありました。12月例会は毎年、国際交流として日本在住の外国人に講演を願っていますが、今年は淑徳大学国際コミュニケーシュン学部助教授のジグラー・ポール氏にお願いしました。演題は「越境する日本の詩」で、T.E.ヒーム、エズラ・パウンド、フェノロサなどがいかに日本の文学に影響されていたかなどの紹介を受けました。蕪村や守武の句の英訳の紹介、19世紀中葉の英訳本の写真なども資料として配布されて、なかなか有意義でしたね。
写真は忘年会での新入会員紹介。今年も大勢入会しました。会員32名、会友3名の計35名が新しく仲間に加わったことになります。死亡退会者が9名、自己都合退会・除籍者が18名、計27名で差引き8名のプラスというところですね。まあ、組織としては毎年プラスになっていって、現有勢力は会員・会友合わせて850名を超えています。私が入会した1989年は、記憶では600名台だったと思いますから、ずいぶん大きな組織になったものだと思います。日本現代詩人会とともに日本を代表する詩人組織と言ってよいでしょう。来年も質量ともに充実した組織に発展してもらいたいものです。
○池袋小劇場機関紙『小劇場』92号 |
2002.12.10 東京都豊島区 池袋小劇場・関きよし氏発行 非売品 |
9月に私も観にいった「セチュアンの善人」の観劇批評が載っていました。さすがに演劇評論家や演劇好きの人は私などには思いもしない観点で観ているんですね。観劇上の参考になりました。
来年の予定も載っていましたので、ここに転載させていただきます。テクスト原作はピーター・マシーセンの『遥かな海亀の島』。赤木三郎さんの台本で「永遠と海−六人の役者たちによる即興漂流」となっています。出演は山内栄治、前原礼子、渡辺美英子、野山みどり、川島柳一、吉田あつこの各氏。公演日程は次の通りです。
2003年2月27日(木) 19時〜
2003年2月28日(金) 19時〜
2003年3月1日(土)14時〜 19時〜
2003年3月2日(日)14時〜
今度も日程の調整がつけば行ってみようと思っています。「小劇場」という名前の通り、観客は50名も入ったらいっぱいです。でもその分、舞台が目の前で、役者の汗までわかるという近さです。演劇は門外漢ですが、9月に行っていっぺんに好きになった劇場です。良かったら行ってみてください。そうそう観劇料は前売2000円、当日2300円です。
○鈴木東海子氏詩集『野の足音』 |
2002.6.30 東京都新宿区 思潮社刊 2000円+税 |
草の家
地平がひかる野に草がもりあがりそこから曲
折する地平のように低い草が群れているかた
ちで家のかたちに。草の溜り場の背丈である。
遠い道のりは意識のうちで遠い道のりであっ
たかのようであり低い場所に開いている草の
家を小さい人のようにくぐるのであった。
煮つめる史誌の
薬草は葉脈を残し
想像する糸口を付ける
鍋をかきまぜる後姿の小ささ。背を丸める人
の背は年ごとに湾曲して湯気にむせる近さだ。
甘い草の溶けだすねばつく菓子の家のふきだ
しである。甘い種属あるいは甘い種子と言い
替えなければならないだろうか。
待つ人の長く待つ人の背の丸みであった。
〈苦みが混っているね〉
すくい取るには
湿りすぎている
溶ける類系の甘昧が漂う草のくぼみに籠がこ
ろがり育つ匂いの子どもたちが青く育ってい
る。
眼でも育つか。草に問うとさわさわと草は急
ぎ応えるように伸びてくる。
これが私たちの成長であった。
あとがきに「フィレンツェやハワースの野原を歩いた。草にまみれる私はとても幸せである。その先に崖があるとしても。過去よりも遠くまで行ったように思われるのだった」とあります。このあとがき自身が詩的なんですが、それはそれとして、このあとがきからも解るにイタリア旅行がきっかけとなった詩集と思われます。でも、そこは東海子さんの詩集ですから、並の旅行詩とは違います。紹介した作品のように、単なるイタリアに行ってきました≠ネんてものではありません。
ただ、この作品の場合はイタリアのことを意識する必要はないと思います。国を超えた普遍性を感じています。特に最終行の「これが私たちの成長であった。」というフレーズはいいですね。「草の家」から収斂するものを感じます。「草の家」が「草がもりあがりそこから曲折する地平のように低い草が群れているかたち」(これは「草の溜り場」と採る方が良いかもしれませんが)、「遠い道のりは意識のうちで遠い道のりであったかのようであり低い場所に開いている」とするあたり、東海子詩の醍醐味を味わった思いです。
「類系」という言葉は他の作品にも多く出てきますが、手持ちの辞書(広辞苑、小学館国語大辞典、理化学辞典)には載っていませんでした。類型≠ノ近い言葉で、類≠フ系統≠ニいうような意味だろうと思います。そんな読み方をしてみました。
○詩と詩論誌『新・現代詩』7号 |
2002.12.1 横浜市港南区 新・現代詩の会 出海渓也氏発行 850円 |
今号の特集は「性」。関根弘の未発表遺稿「『性』先進国文化と浮世絵」、中村不二夫氏の「性同一障害と詩」など注目すべき論文が多い中で、最も目を惹いたのは細野豊氏の「『性』に関する表現の自由について」でした。ラテンアメリカ諸国を通算17年余赴任した経験から、日本の性に関する後進性を論じています。猥褻裁判などで槍玉に挙がる刑法第174条(公然猥褻)、第175条(猥褻物頒布等)の法律は明治40(1907)年制定以来、現在まで変っていないこと、猥褻の判断の権限を一部の警察・官僚が握り、その裁量によって左右される日本社会の問題点を鋭く論じています。
細野氏はさらに性表現の自由に関しては、実は詩人も非常に後進的であることを指摘しています。実例として、1996年にある同人誌に発表しようとした作品が掲載されなかったことを挙げています。同人誌の編集者や同人間でいろいろと論議はあったようですが、結局のところ表現がストレート過ぎる、モンゴロイド蔑視と受けとめられかねない、という理由で不掲載になったようです。その経緯に非常に興味深いものなのですが、それは元誌に譲るとして、ここではその不掲載になった作品を紹介してみましょう。
純血神経症/細野 豊
白い男は
うしろから挿入し
ゆっくり腰をつかう
するとまっ白い尻に
紫色の痣が
あざやかに浮きだし
とたんに萎えてしまう
金髪に桃色の肌だから
混ざり気はないと
信じていたのにと
男は苛立ち
それからというもの
来る日も来る日も
不能の青空に
白い綿雲の群れが
ゆったりと流れ
まろやかなものに
股をすりつけても
だらりと
喘ぐばかりで
ベーリング海峡をわたり
南へ押しよせる
モンゴロイドの群れにうなされ
ぬるい快感とともに
はてしなく
夢を漏らしつづけている
純血神経症の
白い男
別にひどい表現とも思えず、蒙古斑の浮き上がった女性に「萎えてしま」った「白い男」の「純血神経症」をうたっているに過ぎないと思うのですが、この事件≠ェたった6年前であることに驚きます。60年前ではなく、です。
口幅ったい言い方をすれば、文学とは人間を描くこと。人間に性は欠かせないものです。描き方はいろいろあって当然なのですが、避けては通れないことだろうと思うのですが…。正直なところ、私も性について書くことは得意ではありません。そういう意味では古い部類に属する男なんでしょう。少し真面目に考えなければな、と思った特集でした。
○詩誌『刻』40号 |
2002.12.2 茨城県水戸市 茨城詩人会議・高畑弘氏発行 350円 |
恋 <3>/みつぎ しげる
もんぺ姿がまぶしい従姉に
手を引かれて歩いた
男まさりの女と陰口されて
大またで歩いて
見せようか
盲腸をとった傷口よ
もんぺのひもをほどいて
まぶしくてよく見えなかった
白い素肌をぱあっと出して
小さくかわいめのへその下を
さわってみな
目をつぶってこわごわ指を出し
従姉は手首をぐいと引いて
手いっぱい傷口をさすらせて
くすぐったいねこの子は
まだ水戸城が駅横の方から
見えていた頃で
香水のにおいと
何ともいえない大人の女のにおいと
手を引かれながら
うっとりと歩かされて
電車の線路わきの
はり紙を夢の中のように覚えている
「欲しがりません勝つまでは」
最終行がとても良いですね。時代も判るし、「何ともいえない大人の女」を「欲しがる」までの年齢差を感じて、思わずほほえましくなります。
「従姉」と「この子」の関係もうまく描けていると思います。危うい「恋」を表現した佳品だと思いました。
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