きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2002.12.21()

 第180回『KERA(螻)の会』が新宿歌舞伎町・ゴールデン街の「○羅治」(ワラジと読みます)で開かれました。今回は「本年度の詩の分野における総括」ということで、全員が詩集や詩界の動きなどについて話しましたけど、何を話したか、もう忘れてしまいましたね。何せこの日記、2003年2月2日に書いてますからね^_^; ひたすら呑んだことだけを記憶しています。

021221

 今年最後だというので写真を撮りました。店の2階で、10人も入ればいっぱいなんですけど、まあ、膝突き合せてというのでしょうか、雰囲気はいいですよ。ゴールデン街って怖いというイメージがあるようですが、知ってる店なら大丈夫。慣れると、いい街だと思いますね。
 前回に引き続いて流しを呼んで、みんなで歌いました。最近の歌は流しさんも我々も知らないので、古い歌ばっかり。生のギターは音程もリズムもすぐに合わせてくれます。カラオケだと自分で機械まで行って、歌いながら合せなければいけないんですけど、ここでは流しさんと眼を合わせるだけでOK。人間の体温を感じました。



木島始氏エッセイ集『ぼくの尺度』
boku no syakudo
2002.12.10 東京都千代田区 透土社発行・丸善発売
1600円+税

 あとがきに「さまざまな機会に書いて、そのまま散らばりそうな気配のわたしの文章を」「ひとつにまとめた本」とあります。そして「もっとも初期なのは、一九五七年のハンセン病患者創作集への跋であり、もっとも後期なのは、二〇〇〇年の『つぶやきノート』からである」とも書いています。40編ほどのエッセイは短いもので1頁に満たないもの、長いもので20頁近いものと千差万別ですが、著者が何を「尺度」としているかがはっきり読み取れるエッセイ集です。
 著作権の制限がありますからあまり多くは紹介できませんが、巻頭の「字母を造った人々をおもう」から冒頭の部分を転載してみます。
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<もじりの名人は、いつ、どこにいるかわからない。
 校正、畏ルべシ。
 論語の「後生可畏」のもじりで、漢語の日本よみでの同音をつかって、自戒のことばとしたものであろう。未来にわたって影響をおよぼす点を考えあわせる、なかなかに良くできたもじりである。印刷出版にかかわる人間にとっては、一度ならず校正ミスのまま、世に出まわらせるという苦い経験をしないではすまされず、このもじりは忘れがたいものであると思う。>
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 このあとで活字と写真植字との違いにも言及していきますが、字は本来、刀で彫ったものだということに気付いた点が興味深く思いました。石に刀で字を彫る、そこから漢字の直線的な字形が出てきた。ひらがなは木に刻むことによって曲線が可能になったのではないか、という論考はおもしろいです。私も中学生・高校生の頃はアルバイトで文選工をし、会社勤務の合間の自宅に写植機を持ち込んで遊んだことがありますから、漢字・ひらがなの成立過程は知っていたつもりでしたが、石や木までは溯りませんでしたね。思考の浅さ深さについても考えさせられた本です。書店でお求めになってみてください。



詩と批評誌『玄』54号
gen_54
2002.12.15 千葉県東金市
玄の会・高安義郎氏発行 1000円

 時計/杉浦将江

欲しいと思い続けてきた時計
時を告げるたび
楽隊の人形がとび出して
一せいに音楽を奏でる
奏者は多い方がよい

あのピアノ弾きはいいねえ
バイオリンの動き素晴らしい
そんな話をしながら
息子と刻むときをたのしみたかった

重い朝が続き
手にいれる折りを失っているうちに
息子は逝ってしまった

花と線香の中にいる顔を
見るたび想い出に色がつき
内臓をつき破る風がふく
もう時なんか告げなくていい
さっさと勝手に流れてゆけばいい
もう 何もいらない

 作者は編集後記にも息子さんのことを書いていて、9月に40歳で亡くなったことが判ります。「書くのが義務だと思い何とか仕上げた」「どん底の悲しみの中でも書かねばならないと奮起したことで、気持ちが楽になった気がした。書くということの威力を少し知り得た感じがした」とも書いています。
 私には子を亡くしたという経験がありませんが、「もう時なんか告げなくていい/さっさと勝手に流れてゆけばいい」というフレーズには胸を打たれるものがあります。ご冥福をお祈りいたします。



隔月刊詩誌『石の森』113号
ishi no mori 113
2003.1.1 大阪府交野市 金掘則夫氏発行
非売品

 レジ待ち哲学/夏山直美

スーパーの買い物かごを持って
今日はいくら位だなと思いながら
レジを選ぶ
ここは人が多い
ここはたくさんの買い物
見定めて選んだレジに並ぶ

隣りのレジの客は
どんどん支払いを済ませ
人は次々と流れる
近付いてよく見ると新米だったりする
バーコードの位置を捜し
つり銭を取る手をふと止め
思案する
つくり笑いのあいさつも
ぎこちなく
時が絡まっていく

突っ立ったままの私は
足の痛みに耐えながら
――人生て、いつも、こう
とつぶやく
私が選んできた道は
時間ばかりが
のたうちまわり
――あっちの道は
と愚かな自分の足もとを
痛みと共に見つめるばかり

人生はレジ選びに似ている
後から来た人に追い越され
いつも私は待ちぼうけ
つまらない事には勘がさえ
迷いに迷った道はそのまま迷路
冷静な部分の私が一円玉のように
サイフの片隅にへばりついて
出番のないまま哲学をしている

 これに似たことはよくありますね。「後から来た人に追い越され/いつも私は待ちぼうけ/つまらない事には勘がさえ/迷いに迷った道はそのまま迷路」なんてフレーズは、そのまま唄の文句にでもなりそうです。そう言えば上を向いたらキリがない、下を向いたらあとがない≠ネんて歌詞もありました。ま、人生なんてそんなもんでしょう。「出番のないまま哲学を」するしかないのかもしれません。



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