きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2002.12.22()

 年代の近い、気の合った詩人仲間が集って呑もうということになって、池袋に行ってきました。「瓢」という店に6名があつまりましたけど、ヒサゴと呼ぶんですね、この名は。瓢箪のことのようです。酒を入れる瓢箪から来ているのかなと思います。部屋は個室になっていて、カラオケ使い放題でしたから、詩の話などあまりせず、唄ってばかりいました。

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 昨夜は新宿で流しを呼んで、カラオケなんかケッ、と書きましたけど訂正^_^; 小部屋で仲間内と唄うのもいいのです。要は気の合った仲間と唄うなら流しも良し、カラオケも良し、ということでしょうか。新宿の夜も池袋の夜も、楽しませてもらいました。



春木節子氏詩集『Nとわたし』
21世紀詩人叢書48
n to watashi
2002.12.25 東京都新宿区 土曜美術社出版販売刊
1900円+税

 雨音

雨が降っていた
まわりのふうけいは 雨音にすいとられてしずかだ
坂をくだるわたしは 傘の雫にせなかが濡ねてつめたい
坂下の町は霧雨で靄がかかっている

霧のなかから人影があらわれ 坂をのぼってくる
黒い傘がゆれながら だんだんとちかづいてきて
すれちがうと あなただとわかった
昔わたしと知りあった頃の なつかしい若いあなた
あなたらしく よけいなものを見ず ずんずん歩いていく

 すれちがったわたしに あなたはきずきませんでした
 わたしが誰かわからなくとも
 呼びとめてしらせてあげたかった
 だいじにしていたあのおしごとは とてもうまくいきました
 おかあさまは 三ねんまえになくなり
 ふるさとの家は誰も住む人がいないまま 廃屋になり
 かっていた子犬は車にひかれてしんでしまい……

あなたにとって たいせつなはずだった できごとも
こうしてことばにすると
なぜか みなふるびていってしまう

 作中の「あなた」は他の作品に度々出てきて、タイトルにもなっている「N」だろうと思います。「N」は夢の中に出てくる自分、白昼でも存在するもうひとりの自分という解釈で良いと思います。そう考えるとこの作品の真意がつかめるでしょう。「昔わたしと知りあった頃の なつかしい若いあなた/あなたらしく よけいなものを見ず ずんずん歩いていく」というフレーズは著者自身と読み解くことができます。もちろんまったく別人格の「あなた」とすることも可能ですが、「こうしてことばにすると/なぜか みなふるびていってしまう」というフレーズが生きてこないように思います。ここは著者自身の再生と考えた方が良いと思うのです。
 正直なところ、表面をとらえるだけではかなり難しい詩集だと思います。ポイントは「あなた」なり「N」と何ととらえるかでしょう。その解釈によっては別の視点も可能です。読者の感性を問われる詩集と思いました。



左子真由美氏詩集『空と地上の間で』
sora to chijyo no aida de
2002.11.30 京都府長岡京市 竹林館刊 2000円+税

 銀の玉

    あなたを待てば雨が降る
      濡れて来ぬかと気にかかる・・・

 はやりの歌が流れるフロアーで、私はふと男に肩を叩かれた。男
はにっと笑って、一個の銀の玉を差し出した。さっきから私が玉を
捜して、床を物色していたのを見ていたのだ。
 私はよく父についてその店に出入りした。田舎町の繁華街のそこ
だけが妙に活気づいた店。小学生だった私は、失業した父といつも
一緒だった。子供心にも、フランク永井の胸底を震わせるような歌
声は、なにかしら秘密めいた甘さを感じさせた。
 床に落ちた銀の玉を集めるのが私の仕事だった。そうすれば父が
喜ぶのだと幼い心に思っていた。

   ああ ビルのほとりのティールーム
     雨もいとしや歌ってる甘いブルース・・・

 ビルなどはどこにもなかった。ティールームという言葉は、まだ
見ぬ遠い別世界の響きを持っていた。にっと笑った男の顔には、ナ
イフで快ったような深い皺があった。焼けた赤黒い肌、ゆるんだ口
許から漂うほのかな酒の匂い。

 昼のざわめきが消え、夕暮れになると、いつもきまって歯が痛ん
だ。父も母もいない家の台所で、ひとりむきだしの水道管に頬を当
てて冷やした。しばらくすると痛みは遠ざかり、頬も感情も痺れて
いった。西日が出窓にたまり、小さな銀の玉を輝かせる。手のひら
でころがせば、それは快い重量でこころを刺激した。その小さな鉄
のかたまりは、何百何千の幸せに変わるかもしれない。大切な宝物
のように、私はしまい込んだ。そうやっていつも何個かの銀の粒は、
私のポケットにころがっていたのだった。

   あなたとわたしの合言葉
     有楽町で逢いましよう・・・

 はやり歌は去り、歯の痛みも、銀の玉もいつしか私の中から消え
た。風はすべてを吹き飛ばすのだ。その力強い腕の中で、ぐいぐい
と有無を言わさずに。背中半分に残っている西日のぬくもりも、渇
望のざらついた懐かしい横顔も。ただ、それはどこかで私をつなぎ
止めていて、時々ひよっこりと顔を出す。こころという一番やっか
いな海の中に、寂れた漁村の破船のように、ひっそりといつまでも
息づいていて。

 私は著者とほとんど同じ年齢なので、この作品の持つ郷愁と痛みが判るように思います。「小学生だった」私も「フランク永井の胸底を震わせるような歌声」に「なにかしら秘密めいた甘さを感じ」たものです。何度かフランク永井主演の映画も観た記憶があります。私たちよりもちょっと上の、当時、青春の真っ最中だった世代とは違った感覚で、この歌手を見ていました。その感覚がよく出ていると思います。
 私には「床に落ちた銀の玉を集め」た経験はありませんが、「夕暮れになると、いつもきまって歯が痛んだ」覚えはあります。「父も母もいない家の台所で、ひとりむきだしの水道管に頬を当てて冷やした」こともあり、同じ時代を生きた人なのだなと共感します。何と言うのでしょうか、私たちの世代が持っている、独特の悲しみが表現されているように思うのです。一世代前の、60年安保に敗れた人たちとは違う悲しさ、そんなものがあるように感じています。他の作品にもそれは感じ取れて、こういうことを表現した詩人は今までいなかったように思います。そういうふうに受けとめた詩集で、なつかしさに何度も読み返してしまいました。



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