きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2002.12.24()

 クリスマス・イブ。ここ10年ほど何の関係もない日ですが、今年も何も関係ありませんでした^_^; 妹夫婦は近所でも評判になるほどの飾り付けを玄関にやっていましたが、本物のクリスチャンですから、まあ、許せるな。クリスチャンでもない家庭であれをやっているのを見ると、何だかなあ、と思ってしまいます。このHPをご覧の皆様で該当するご家庭があったら、読み飛ばしてください。そんなふうに見ているひねくれ者もいるということで…。

 白状しちゃいますけど、今を去ること20年も30年も前は、イブだと言って呑み屋でドンチャン騒ぎをやっていました。今はオトナになって静かにしているという程度ですから、他人様の飾り付けを云々する資格はありません。それに、うちでは高校生の娘が室内で小さなツリーを飾って楽しんでいますから、ますます云々できませんね。でも、ここから日本人の精神構造に言及する、なんて恰好いいことができればいいんですけど、それも無理だなあ。ま、複雑な日という感覚でいます、ということでお茶を濁しましょう。



月刊詩誌『柵』193号
saku 193
2002.12.20 大阪府豊能郡能勢町
詩画工房・志賀英夫氏発行 600円

 再会/中井ひさ子

夕暮 空が青の深さをましていく

車の往来の激しい道路沿いに
三階建てのマンションが
浮びあがる
ゆるやかな光の中
横に五軒
扉が整然と並ぶ
二階の右から三軒目の
扉が開き
男が一人出てきた
ふと立ち止まった私に
片手をあげる
父だ
こんなところに住んでいた

「何処へ行くの」
一軒の小さな喫茶店を指さす
「何か用事があった?
話したいことあったの」
「別に ふと思いついて
この店のコーヒー意外にうまいな」
飲み終わると
「じゃあな」と
マンションの扉の向こうに
消えた

七年前に死んだ父は
相変わらず無口だった

父がいる と
扉を見上げる

再び 扉が開き
塾のカバンを持った
男の子が飛び出し
走り去った

 作品というものは、作者の実生活に直接関係がないものだと思っています。それをまず念頭に置いて、その上で虚構の生活を作品として鑑賞してみたいと思います。
 「父」は「私」と離れて暮している。おそらく「私」の母親と離婚したのでしょう、「男の子」が別にいるようですから。それが一番素直な読み方だと思います。「私」だけが親元を離れて、という読み方もできますが、ちょっと苦しい。
 この作品の素晴らしいところは第4連でしょうね。「再会」した父は、実は「七年前に死んだ」のだと判ったとき、作品の質が変りました。現実と非現実のあわいに読者は置かれてしまいました。そういう場面設定になったからこそ作品≠ニして冷静に読むことができるようになった、とも言えましょう。ナマの現実を突きつけられるのではなく…。そして、この作品に仮託した作者の深い哀しみ、「こんなところに住んでいた」という悲しい発見も感じ取れるようになった、とも言えます。現代詩のひとつの分野を切り開いていく作品だと思います。



個人詩誌『空想カフェ』9号
kuso_cafe_9
2002.12.3 東京都品川区 堀内みちこ氏発行
非売品

 思い出せない/竹添敦子

思い出せないものがある
父のむかし
母のむかし
若かったころの
威勢がよかったころの

思い出すのは
駅の階段を下りてくる足どりのおぼつかなさ
景色を眺めながら並んで座っている背中
震える手で書き遺した文章
弱く幼くなった父の愁訴
細く小さくなった母の沈黙
どうして憶えておかなかったのか
四十歳の父を
三十歳の母を

どうして拒んでばかりいたのだろう
五十歳の父を
四十歳の母を
その頃の自分を思い出すのに
その頃の父も母も思い出せない
像を結ばない

そう
父を見ていなかった
母を見ていなかった
見ていたのは自分ばかり
自分の夢ばかり

思い出せない
私より若い父がいたはずなのに
思い出せない
私より若い母がいたはずなのに

 この感覚は判りますね。正確には、50を過ぎてようやく判るようになった、と言うところでしょうか。子も大きくなって、子に自分の昔を重ねると「見ていたのは自分ばかり/自分の夢ばかり」というフレーズが痛いほど理解できます。まあ、人間なんてそんなもんだと思いますがね。ようやく冷静になってきたらしい自分を感じさせる作品でした。



詩誌『1/2』12号
1-2_12
2002.11.20 東京都中央区
近野十志夫氏発行 400円

 さがし/宮川 守

現実はそこにある
携帯をなくせばすべてがなくなるような気になって落ち込む
見つめるものがなにもないような
そんな気持ちになりながら毎日さがしまわる
なにも それがなくてもいいのに
わざわざ さがしまわる
マナーモードにしたままだから
震えるだけで こちらには伝わらない
あそこにもない こちらにもない納得いかないで
いくらなんでも あそこにはないはずと思ったところに
ひょっこり顔だしてくる
よくまあ
こんなことばかりが一日の始まりかとも
手厳しい。

メールは そこになければ引き裂かれたまま
あれも出来ないし これも出来ないし
できないことばかりがでてくるので
困ったものだ
幸か不幸か携帯はそこにある
あるから使わなくてはならないので 使ってみるのだが
いったりきたり
迷ってばかりである
だれがこんなものを便利だときめたのか
すこしの不満をぶつけてみるが

携帯を携帯しないでくらせたならと
目の前に座席には9人座っていて
4人までが取り出している
まわりになんの挨拶もなしに

まあ
そうすればこちらも はじめるかと
手にとりだしている

便利なものは意外と不便だ
不便を感じながら いかにも快適そうに
いかにも 幸せそうにメールを書き始める
現実はそこにあるし そこにはないような気分になりながら

 添えられた手紙に『1/2』の由来が書かれていました。「50歳で半人前、一生(百まで)書き続けようぜ」という意味だそうです。この感覚は魅力ですね。どうも私と年代が近い方が多いのではないかと想像しています。ちなみに私は1949年生れです。
 紹介した作品は「便利なものは意外と不便だ」というフレーズに思わず◎を付けてしまったものです。そうなんですね、便利さの本質を見事に言い表した言葉なんです。これが判らない人は変に文明批評家ぶったり、食わず嫌いになったりするのではないでしょうか。道具なんだから、とりあえず使ってみればいい、というのが私のスタンスです。その上で設計者の考えの至らないところを笑えば良い。そうすれば設計者は次にはもっと良いものを考えます。対話が成立つと思うのです。
 私事ですみませんが、私の生業は化学工学です。設計も多少はやりますが、いつも念頭に置いているのは「便利なものは意外と不便だ」という思考です。働く人が楽になるような設計をすると、結果として技能が伝承されないという弊害が起きます。それが「不便」のひとつだろうと拡大解釈しています。この作品はそういう理系への警鐘とも受取りました。



個人詩誌COAL SACK44号
coal_sack_44
2002.12.25 千葉県柏市
コールサック社・鈴木比佐雄氏発行 500円

 シュラウドからの手紙/鈴木比佐雄

父と母が生まれた福島の海辺に
いまも荒波は押し寄せているだろう
波は少年の私を海底の砂に巻き込み
塩水を呑ませ浜まで打ち上げていった

波はいま原発の温排水を冷まし続けているのか
人を狂気に馴らすものは何がきっかけだろうか
検査データを改ざんした日
その人は胸に痛みを覚えたはずだ
その人は嘘のために胸が張り裂けそうになって
シュラウドのように熱疲労で
眠れなくなったかも知れない

二○○○年七月
その人はシュラウド(炉心隔壁)のひび割れが
もっと広がり張り裂けるのを恐怖した
東京電力が一○年にわたって
ひび割れを改ざんしていたことを内部告発した
二年後の二○○二年八月 告発は事夷と認められた

私はその人の胸の格闘
(ひびわれ)を聞いてみたい
その良心的で英雄的な告発をたたえたい
そのような告発の風土が育たなければ
東北がチェルノブイリのように破壊される日が必ず来る
福島第一原発 六基
福島第二原発 四基
新潟柏崎刈羽原発 三基
十三基の中のひび割れた未修理の五基を
原子力・安全保安院と東京電力はいまだ運転を続けている
残り八基もどう考えてもあやしい

国家と電力会社は決して真実を語らない
組織は技術力のひび割れを隠し続ける
福島と新潟の海辺の民に
シュラウドからの手紙は今度いつ届くのだろうか
次の手紙ではシュラウドのひび割れが
老朽化した原発全体のひび割れになっていることを告げるか

子供のころ遊んだ福島の海辺にはまだ原発はなかった
あと何千年たったらそのころの海辺に戻れるのだろうか
未来の海辺には脱原発の記念碑にその人の名が刻まれ
その周りで子供たちが波とたわむれているだろうか

 私の父親の実家は福島県いわき市にあり、私も小学校3年生まではそこで過しました。小名浜港が出来る前のことで、「波は少年の私を海底の砂に巻き込み/塩水を呑ませ浜まで打ち上げていった」体験をしています。岩牡蠣を採って、潮水で洗って食べたことを覚えています。その近くに原発があるんですから、もう、風景も環境も変ってしまったでしょうね。
 環境が変ったどころか、原発には「シュラウド(炉心隔壁)のひび割れが」あるというのですから、恐ろしいことです。「シュラウドからの手紙は今度いつ届くのだろうか」というフレーズには、戦慄さえ覚えます。「内部告発」がなければ、今だに隠され続けて「東北がチェルノブイリのように破壊される日が必ず来」ていたかもしれません。「シュラウドからの手紙」という鋭い手法に刺激されて、改めて原発と「国家と電力会社」を考えさせられた作品でした。



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