きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2003.1.1()

 新年おめでとうございます!、、、と2/23に書いてますから全然実感がありませんね^_^; ようやくここまで追いついてきました。これからはガンガンと遅れを取り戻していく予定でいます。2ヵ月経っても返事が来ないとお怒りの皆様、もうしばらくお待ちください。
 で、記憶を辿って正月のことを振り返ってみますと、この日は静岡県小山町の実家に行っていました。私は長男ですから本来なら実家に住むところなんですが、そういう意識はまったく無くて隣の神奈川県に住んでいます。でも、正月ぐらいは実家に帰らないと、と思って、健気にも帰省しました。と言ってもクルマで20分の距離なんですけどね^_^;

 実家では父親が一人で住んでいます。この父親も変った人間でして、自分の息子でも一緒にいると嫌という感覚ですから、一人暮しを楽しんでいます。でも子供が正月に集るのはうれしいんでしょうね、歓迎してもらえました^_^; 妹夫婦とその子たち、そして私と呑みまくりました。正確には呑みまくったのは私と父親だけでしたけど…。妹夫妻はクリスチャンというせいか、まったく呑みません。少しシラケながら呑んでいましたけど、まあ、最後は妹の亭主が私のクルマを運転して送ってくれましたから許すかぁ。なんか、前途多難な予感がしますね。



季刊詩誌『夢ゝ』12号
yume_yume_12
2003.1 埼玉県所沢市
書肆夢ゝ・山本萌氏発行 200円

 雨の交差点/山本 萌

 ある会合を抜けて外に出ると、小雨が降りかかってい
た。傘をさしても、なぜか小走りになってしまう。その日
は気分が優れなかったせいか、地下鉄の駅までのビルの谷
間の道を、うそ寒いものに背を押されるようにして歩い
た。信号で立ち止まると、私の目は向かい側の角の、小暗
い家に吸い寄せられてしまった。
 そこの玄関の格子戸から、黄色い電灯の明かりが洩れて
いたのだ。なんとそれは胸にしみ入る灯だったろう。明る
いというよりも、ともることで辺りの仄暗さがきわ立つ明
かりだった。
 初めて見たその家は板壁の古めかしい二階家で、道路側
には家全体を覆うように樹木が繁っていた。慎ましい家と
いう器を、樹々が外の荒廃から守っているように見えた。
まるでそれは、宇宙の涯ての遠い黄昏へ流れて行ってしま
う小舟のようだ。このしんとした家は、揺れて、さまよっ
て、やがて形のない何かに変わっていくのか。それらは
ひっそりと夕闇に融け、私はただぼおっと立ったまま、夢
を浮遊した。
 ああ、そうだった。途方もなく私は寂しかったのだ。胸
の奥の、その奥の、誰も触れることのできぬ寂寥が、五
ワット程のちいさな灯にいま照らし出されている。
 それは、人の不在の寂しさではなかった。人が人として
生まれ出たその根源から、とめどなく湧きつづけ、人であ
る限り消え去らないいのちの営みのように思われた。誰も
みな急いで行ってしまうので、自身の内に在るものに気づ
かない。
 現代文明に置き去りにされた一軒の家の(およそ魂の容
れ物のような)、静かな雨に浸されていくたたずまいの愛
しさ、美しさ。ふと立ち止まった暮れ方の信号で、そのよ
うに私は自分の懐かしい寂寥と会った。

 形式にこだわる必要はありませんが、散文詩ともエッセイとも読める作品です。でもやはり、散文詩として読みたいですね。「なんとそれは胸にしみ入る灯だったろう」という発見は、実は「自分の懐かしい寂寥」との出逢いだったのだ、と帰結するあたり、見事だと思います。抒情の根源と言えましょう。「雨の交差点」というタイトルも生きていますね。



詩画集『夢ゝ』別冊3
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2003.1 埼玉県所沢市
書肆夢ゝ・山本萌氏発行 500円

 鳥語のひと/赤木三郎

わたしと出会った
鳥語のひとの話をしようか

わたしは こんなすばらしいひとを いままでみたことが なかった
でも わたしには 話しかけられることばが なにひとつわからない

そのうちに わたしに かなしみというものが わかってきた
かなしみというのは それは とてもほこりたかい ことだ
かなしみは あたたかい


わかる
ことばが
ぜんぶ
ききとれる

よのなかは ひとつのことばに みちていた
わたしも 鳥語のひとに なっていたのだ

ひかりと かなしみは ひとつの もの
ふかいかなしみにかがやき わたしは
しあわせ だった

それからは ずうっと

 山本萌さんのクレヨン画に赤木三郎さんの詩片(そう書かれています)が添えられた詩画集です。原本では基本的に1頁に1詩片という形がとられていますが、ここでは勝手に1編の詩としてまとめてみました。行分けは村山の任意です。まとめるとおそらくこうなるだろうという予想のもにやってみましたから、あるいは作者の意図とは違うかもしれません。
 私の家にもさまざまな鳥たちが訪れてくれて、鳥語がわかったらどんなに素晴らしいことだろうかという思いはあります。それが「あ/わかる/ことばが/ぜんぶ/ききとれる」というのですから、本当に素晴らしいことですね。それも「よのなかは ひとつのことばに みちていた」という発見ですから…。しかもそれは「ふかいかなしみにかがや」くものである。その「かなしみというのは それは とてもほこりたかい ことだ」と気付くあたり、赤木三郎という詩人の基本的な姿勢を感じます。こうやって「よのなか」と自分とを見よ、と教えられた作品です。



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