きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2003.1.6()

 今日から会社も始まりましたけど、サボってます^_^; 休暇です。昨年暮に上司から、あまりにも休暇消化が少ないので年末年始は休暇を取るよう厳命されていました。製造現場をかかえている職場ですから、製造されていない年末年始は休暇消化のチャンスなんですね。そうは言っても、年末は忙しくて取れませんでした。年始の今日は確かに会社に行っても碌な仕事がありませんから、休暇を取らせてもらった、という次第です。
 例によって、一日中いただいた本を読んでいました。HPアップが遅れていて、ようやく昨年11月分が終ったところです。まだまだ先は長い。遅れを取り戻すのは大変ですね。



詩と評論・隔月刊『漉林』111号
rokurin 111
2003.2.1 東京都足立区
漉林書房・田川紀久雄氏発行 800円

 隠れた庭/野間明子

 隠れた庭を捜して坂道を下りた。煉瓦塀と板塀の間の狭い路地。
行止まった崖は一面暗い羊歯に覆われ、ふと見れば棕櫚、芭蕉、檳榔
樹、名前を知らないくねくねとねじ曲がった蔓や気根を伸ばす植物の
繁茂する。奥に見える木造の洋館は窓を閉じてしんとしている。水分
の多い地面。潤んだ木漏日。チチ、チと聞こえるのはもちろん雀では
なくて図鑑で見る極彩色の。不意にここにいるのを見つけられるのが
怖くなり、今来た路地を駆け戻った。それきり、わからない。同じ坂
道を下りながら家と家の間のすベての路地へ入りこんでも、私の家と
同じ松や椿や鳳仙花が値わっているだけだ。

 隠れた蝶を捜して石段を上った。百何段かあったろうか。上りつめ
ると野原の間を畑まで続く一本道。右も左も一面の叢の上を色とりど
りの夥しい蝶が縫れあって回っている。見とれながら歩いても歩いて
もいっこうに畑には着かず、振りかえれば伸び盛る夏草の勢いに頼り
ない一本道は今にも途切れそうだ。蒸し蒸しと草いきれ。虻の羽音。
不意にここにいるのを見つけられないのが怖くなり、途切れがちな細
道を駆け戻った。それきり、わからない。百段ありそうな石段を片端
から上っても、新しい建売住宅の前に自家用車が駐まっているだけだ。

 隠れた人に会いに昼間眠る。うつらうつらの体のまわりを足音が廻
る。みしみしと震動が背中に届く。もう死なない兄。これから死ぬ兄。
死んでから夢をみる父。廻りながら顔見合わせて、たぶん話もしてい
る(私のうつらうつらを指さして)。みしみしと、ぎしぎしと呉の借
家の畳がきしむ。

 隠れていくものを迎えに船が現れる。水平線を裂いて。血の色をし
た水脈を曳き、無数の吃水線を引き連れて。夕陽が限りなく沈む。夕
凪が果てしなく続く。.

 隠れにいこう。私もまた隠されにいこう。今度こそ逃げ帰らずにそ
こにいて、ずっとそこにいていいのだから。隠そうとする手に誘われ
ていそいそと靡いていこう。

 「隠れた庭」「隠れた蝶」「隠れた人」と続いて、この詩のテーマが少し判ったような気がしています。日頃、忘れている深層の心理、とでも言ったらいいのでしょうか、確かにこのような精神の迷路に迷い込んでしまうことがあります。そこをうまく表現した作品だと思います。
 この詩のすごいところは、それらの「隠れた」ものが与えられたものだけでなく、「私もまた隠されにいこう」と自動的なところだと思います。常に「駆け戻った」のに、最後には「今度こそ逃げ帰らず」にいようとするその精神の強さに感嘆します。強さだけでなく、精神の成長と言い換えてもよいかもしれません。考えさせられることの多い作品です。



詩誌『銀猫』11号
ginneko 11
2002.10.26 群馬県前橋市
飯島章氏発行 300円

 ナーシッサス(水仙)/井上悠一郎

「闇のなかの色彩」
何人かが僕の詩を見抜いて言った。
未だに視界の悪い僕に
午後の庭の微風は心地良く
散水車はクルクルと廻る
急がなくても午後十一時まで明るいロンドンの夏

ふと、何故花が美しいのか
気になった


 一九四五年 夏

褐色の彫像の眼窩は凍る
白磁の美術館に眠る
目覚めの日に

母が発狂した昼下がり
夏草は茂り
兄は洋室にまどろむ

 同じ作者による4編の短詩が収められていましたので、そのうちの2編を紹介してみました。いずれも美術的な背景を感じさせる作品です。
 「ナーシッサス(水仙)」では、唐突に現れる「ロンドンの夏」が想像を刺激し、終連の「ふと、何故花が美しいのか/気になった」へうまくつなげていく作用をしているように思いました。
 「一九四五年 夏」はタイトルが重要です。このタイトルのもとに全ての行を考えることができます。第1連は「目覚めの日」を待つ「褐色の彫像」で制約からの解放を表現し、終連では戦争を意識的に体験した「母」と「兄」が描かれています。おそらく作者はそのとき、幼少で意識的な体験が無かったのだろうと想像できます。そして、「兄」が「まどろむ」という表現で敗戦を現しているのだと思います。



   back(1月の部屋へ戻る)

   
home