きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2003.1.10()

 日本詩人クラブの理事会が予定されていましたが、行けませんでした。職場の新年会があったのです。部単位の新年会ですから、200名ほどが集ります。いつもならサボってもどういうことはない新年会ですけど、今年は駄目でした。新職場に移って初めての新年会ということもありますけど、今回は私の発案で、ある取組をしてもらいました。日頃、仕事の繋がりが強い東京本社営業部を招待してはどうか、と提案しました。それが通って、営業部の連中が来ることになったのです。そんなわけですから、発案者の私がサボるのはどうも具合が悪い、という次第でした。
 営業部が招待されて来たと言っても、新年会そのものはどうということなく例年の如し、でしたね。二次会は気の合った連中に誘われて、5人ほどで近くの居酒屋に行きました。若い女性が二人いますから、さすがに華やかで、ついつい痛飲してしまいましたね^_^; 居酒屋では顔見知りの連中も何人かいて、久しぶりにhighな気分で呑みました。今年は少し酒を控えようと思っていますけど、無理そうだなぁ。



金子秀夫氏詩集『人間の塔』
ningen no tou
2003.1.15 横浜市西区 福田正夫詩の会発行
2000円

 人間の塔−ビーゲランに

死後の世界があると信じたビーゲラン
人生は円環であるという
生で始まり死で終わり
また死から生が生まれる

人生は円環だが
死後の世界は無だ
人間は復活しないのだ

(いくら性器と性器をこすりあわせ
かさねあわせて たしかめあっても
光晴の究極の真理は訪れなくて
いつも終わってしまう)

では その先に何を求め 信じる
人間が人間につながり 重なりあい
背中や尻と男女が合わさり
乳房を出し 性器を見せる
裸身の群像の熱気に圧倒され
男がからみ女がからまる人間の塔を見あげる

人は誰もが同じだ
始まりがあって終わりがある
だから人生は楽しいのだ
孤独な恐れが原生林の濃霧に飲みこまれた
ガスって乳白色の液体にふさがれる
まだ夜は明け染めないで
凍りついたフィヨルドの岩石がすべすべに磨かれて発光する

たまご型の船を硝子の湾へ浮かべよう
男と女の背筋を伝わり
背中合わせになった孤独が叫びになるか
神経を病んだ男のそばにいて手を握る

 電車の坐席でたがいに無関心をよそおい
盲導犬をつれた老人が改札が始まるのを待って駅の構内のすみに
立っている

(人生とは何であるか
 と問いつめることが
 人生なのだ)

オスロの街で靴音が鳴る石だたみの道
大聖堂近くのレストランで
クジラのビフテキを食べた
ここでも月の光が気になって闇空へ目を走らせる
イプセンの生涯を思い
井手文雄の眼鏡ごしの微笑の細い眼の善意をかみしめた
彼らもこの通りを歩き
大きな旗のたれる 暗いレストランのテーブルに腰かけ
ワインを飲んで談笑したろう

濃霧と寒気に抱かれた郷愁のぬくもりが
産道をもとめ
ビーゲランの塔を登るのだ
人間讃歌のコーラスが響いている

 この詩集については、私の地元の新聞社から書評を書くように求められ、投稿した原稿があります。それを掲載することで感想とさせていただきます。

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 芸術家同士の交歓 金子秀夫詩集『人間の塔』

 小田原ゆかりの詩人・福田正夫は大正デモクラシーの中で「民衆詩派」を興し、現代詩の原点とも
言うべき詩誌『民衆』を発行した。愛娘の福田美鈴さんは現在「福田正夫詩の会」の代表で、金子秀夫さんは美鈴さんの夫君でもあり、同会の実質的な責任者でもある。
 その金子さんがこの度、詩集『人間の塔』を上梓なさって、さっそく拝読した。

 タイトルポエムの「人間の塔」には「ビーゲランに」という副題が付いている。浅学にして「ビーゲラン」の意味が判らず、インターネットで調べてみた。ノルウェーの彫刻家で一八六九年生れ、一九四三年死去とある。オスロにはビーゲラン彫刻公園というものまであるようだ。ビーゲランのテーマは人間の一生≠ニ出ている。金子さんは北欧旅行で訪れていると読み取れる。「人間の塔」とはビーゲランの作品のひとつと見て間違いなさそうだ。その詩の最初を見てみよう。

 死後の世界があると信じたビーゲラン
 人生は円環であるという
 生で始まり死で終わり
 また死から生が生まれる

 人生は円環だが
 死後の世界は無だ
 人間は復活しないのだ

 第一連から第二連の部分であるが、金子さんの死生観をはっきりと読み取ることができる。そしてビーゲランの彫刻の様子は第四連で見られる。

 では その先に何を求め 信じる
 人間が人間につながり 重なりあい
 背中や尻と男女が合わさり
 乳房を出し 性器を見せる 
 裸身の群像の熱気に圧倒され
 男がからみ女がからまる人間の塔を見あげる

 「人間の塔」は生殖そのものをも表現している彫刻のようだが、人間の「円環」を考えるなら避けては通れないもので、金子さんはそれを冷静な眼で表現している。
 金子さんの死生観は第一・二連で読み取れたが、しかしそれは決して絶望ではない。続く第五連は次のようになっている。

 人は誰もが同じだ
 始まりがあって終わりがある
 だから人生は楽しいのだ

 このバランス感覚は素晴らしい。「人間は復活しない」「だから人生は楽しいのだ」と言い切る金子
さんはビーゲランの彫刻に触発されたというより、同質のものを感じたのではなかろうか。さらに第八連では次のようにも言う。

 (人生とは何であるか
  と問いつめることが
  人生なのだ)

 実は文学の真髄はここにあると私は思っている。「人生」を芸術≠ニ置き換えても良い。文学も芸術も人生も、「問いつめる」ことだとするこの連は重く、そして深いのである。
 第九連はちょっと長いが全行を引用してみよう。

 オスロの街で靴音が鳴る石だたみの道
 大聖堂近くのレストランで
 クジラのビフテキを食べた
 ここでも月の光が気になって闇空へ目を走らせる
 イプセンの生涯を思い
 井手文雄の眼鏡ごしの微笑の細い眼の善意をかみしめた
 彼らもこの通りを歩き
 大きな旗のたれる 暗いレストランのテーブルに腰かけ
 ワインを飲んで談笑したろう

 オスロでの一シーンだが、ここでは亡くなった人へ思いを馳せている。作品中の「井手文雄」は元横浜国大教授、日本詩人クラブの会長でもあった。私も何度も彼を囲む会に呼んでもらって、親しくさせていただいたが、まさに「眼鏡ごしの微笑の細い眼の善意」の紳士であった。おそらく井手文雄もオスロに行ったことがあって、金子さんはそれを知っていたのだろう。文学とは人間を書くこと。たった一行で金子さんは井手文雄という人間を書いてしまった。
 最終連は再びビーゲランに戻って、次のように書いている。

 濃霧と寒気に抱かれた郷愁のぬくもりが
 産道をもとめ
 ビーゲランの塔を登るのだ
 人間讃歌のコーラスが響いている

 ノルウェーの「濃霧と寒気」の中で金子さんが確かにつかんだ「人間讃歌のコーラス」。詩のエンディングとしても見事だが、それ以上に金子秀夫という詩人の人間性に打たれる。私にとってはまだ見ぬ彫刻家だが、ビーゲランというノルウェーの芸術家と金子秀夫という日本の詩人が強く交歓した作品と言えるだろう。

 紙面の都合で一作のみの紹介となったが、福田正夫以来の「人間讃歌」をうたった詩集である。紹介した「人間の塔」には新聞という性格上、割愛した部分もある。性に関する文学表現を新聞に掲載するのには、まだまだ難しい時代だという認識を持っている。それらも合わせて考えてほしい詩集である。



季刊・詩とエッセイ『焔』63号
honoho_63
2002.12.20 横浜市西区 福田正夫詩の会発行
1000円

 伊勢節考/西川 修

島ではもう何年も神輿
(みこし)は人にかつがれたことはない。軽トラックの荷台
に載せられて老いた神主の後に従っている。海辺の集落やミカン畑に点
在する家々を訪れる。秋祭りの神輿といっしよに父の謡う伊勢節がエン
ドレステープになって流れている。亡くなった父が祭りの日に帰ってく
る。
ハーヨイサー ハーヨイネー
ウレシイネー メデタイネー ヨーイヨイ
ヤーットコー セーエーノー ヨーイヤーナー
節回しの声色に母は涙する。スピーカーからの伊勢節がトンビの舞う秋
空に吸われていく。
しまなみ街道が山裾を切り裂き工事車が土煙をあげて往来する。父が
逝って放置した段々畑は雑木が自在に枝を張り草むしてもとの山に戻り
つつある。一陣の風が胸間を吹き抜け、行き来することもなくなった農
道にすすきの穂がなびいている。
昨夜 うなされた夢で狐たちが集まって社の森から神輿をかつぎ出そう
としていた。収納庫の閂
(かんぬき)がはずされて暗がりのなかであかい舌が合議を
始めている。楠の大木に隠れて盗み見ると若い衆の顔がまじっていた。
そのひとりが父に似ていると思ったのは気のせいだろうか。

 日本詩人クラブの会員でもあった作者が、54歳という若さで亡くなったのは昨年9月のことです。今号では追悼特集を組んでいました。紹介した作品は絶筆です。この数日後に亡くなったようです。父上への思いと生れた島への愛情がからみあった見事な作品だと思います。「秋祭りの神輿といっしよに父の謡う伊勢節がエン/ドレステープになって流れている」というのは、父上が亡くなったあとも録音された「伊勢節」を使っているということだと思います。跡を継ぐことができないほどの謡だったのだろうと想像しました。
 ルビがきちんと表現できなくて、新聞方式になったことをお詫びします。もとは1行32文字の散文詩でした。



進一男氏詩集『花花』
hana hana
2003.1.10 宮崎県東諸県郡高岡町
本多企画刊  3000円+税

 ひまわり

ためらうことなく云えるように
否! と
だが否! のそのあとから
連続的に発せられる否!
否!の その中で
一九七八年七月のひまわりは
空の一点を
見上げたままでいる

 著者は過去に25冊ほどの詩集を出版している方ですが、本詩集はそれらの中の花に関する作品を一冊にまとめたもの、とあとがきにありました。一冊の詩集に一篇の花に関する詩があったとしても、それだけで25篇の詩が集るわけですから、その量にまず驚かされますね。ちなみに本詩集には33篇の作品が収められていました。
 紹介した作品はその中でも短詩に属する方ですが、1981年10月に沖積舎より刊行した詩集『日常の眼』に収録されているそうです。「空の一点を/見上げたままでいる」「ひまわり」の凛とした姿が「否!」という繰返しに見事に表現されていると思います。ひまわりについて書かれた詩は何度か拝見したことがありますが、「否!」ひとことで言い表して作品には初めて出会いました。著者の並々ならぬ観察力と卓越した言語感覚を感じます。そして、花好きにはこたえられない詩集だと思います。



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