きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2003.1.13()

 1/12〜13は家族でスキーに行こうかという話があったんですが、結局中止になりました。私としては久しぶりの雪道運転になるかもしれないので、切れたチェーンの替りを買うか、4驅のクルマを借りるかそれとも電車で行くかと迷っていましたから、中止になってホッとしましたね。4驅を持っていた頃は何の心配もしていなかったのですが、FFのスターレットと嫁さんの軽だけになってしまうと、こういう時に困ります。
 そんなわけで時間が空いたので南青山で開催された『詩と思想』新年会に急遽出席しました。直前の出席連絡にも関らず、すぐに対応してくれた発行所の皆さんに感謝しています。
 新年会とともに、恒例の「詩と思想新人賞」授賞式もありました。今年は渡辺めぐみ氏の「恐らくそれは赦しということ」に決定。彼女の昨年の詩集『ベイ・アン』は日本詩人クラブ新人賞の最終まで残ったし、この新人賞は受賞したしで、良い年だったのではないかと思います。

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受賞作品を朗読する渡辺さん

 今年も活躍をしてくれるものと期待しています。病弱のようだけど、無理しないでがんばってね、めぐみさん!
 全体としての二次会もありましたけど、そちらはサボって10人ほどの仲間と別に二次会を設けました。最近、そういうパターンが多いな。まるで分派活動みたいだけど、そんな気はさらさらありません。大勢の酔っ払いの中にいると疲れるようになったことと、年代の近い連中が何となく集って、他に行くかという話になってしまうだけのことです。正直なところ、私も年配の詩人に気を遣いながら酒呑んでも楽しくなくなっています。そんな気を遣う必要のない同年輩との酒の方が楽、というところです。
 若い連中と呑むのも楽しいけど、これはこれで年代差を感じてシラケたり、話題についていけなかったりしますから、やはり同年代が一番気楽ですね。おいおい、そんなことを感じる年代になっちゃったのかよ、とこれは私自身が一番驚いているわけです。



詩誌『孔雀船』61号
kujyakusen 61
2003.1.10 東京都国分寺市
孔雀船詩社・望月苑巳氏発行 700円

 密度/吉田義昭

 机の上に空のグラスが置かれている。内側に水滴。誰かが水を飲
み干した後なのだろう。
 青く透き通ったガラス製のグラス。太陽光の青い光だけを透過さ
せ、壁に青白い影が出来ていた。

 私はそのグラスの内側に、一辺が一センチメートルの四面体の水
の形を空想した。そして、その四面体ごと、水たちが激しく移動し
ている様子を空想した。じっと見つめていると、水とグラスの、ど
ちらが容器なのかわからなくなり、不意に、水たちが体積や質量で
定義されることを拒んでいるような気がしてならなかった。

 かつて私は、一辺が一センチメートルの四面体の質量で、物たち
を調ベた男の夢を見たことがある。彼は自分は科学者ではなく、物
の真実の見える思想家だと嘘をついたが。
 それから、また、数百年が過ぎ、誰が、水で出来た四面体の質量
を、一グラムと決めたのだろう。私はまだその男の夢は見ていない。

 青く輝いた空のグラスに触れてみた。既に内側は乾ききり、一滴
の水滴もなかった。何時間もグラスばかりに見とれていた。そして
これもまた想像上のことだが、おもむろに古ぼけた精密天秤を、グ
ラスの横に置いてみた。

 それからまたしばらくして、静かに水だけで出来た一辺が一セン
チメートルの四面体をグラスから取り出し、天秤に載せた自分の姿
を空想した。

 指先に生温い温度を感じた。堅さもなく、柔らかさもなく、奇妙
な感触だった。
 その四面休を天秤に載せると、正確に1グラムの質量を示した。私
は無感動に、その目盛りを見つめている、自分の姿をまた空想した。
しかし、 ここにいる私こそが、 水に調べられている気がしてならな
かった。

 「密度」「質量」という言葉が出てきましたから、厳密な意味を知りたいという癖が出て『理化学辞典』を引っ張り出してみましたけど、この作品に直接の関係はありませんね(そういう道草を食うから本を読むのが遅くなる^_^;)。
 「水だけで出来た一辺が一センチメートルの四面体」「堅さもなく、柔らかさもなく、奇妙な感触」というふうに水をとらえることが詩人の仕事だと思います。「密度」には体積密度・面密度・線密度があって、などと分類するのは物理屋・化学屋に任せておけば良い。「意に、水たちが体積や質量で定義されることを拒んでいるような気がしてならなかった」と書くのが文学の仕事でしょう。そして「しかし、 ここにいる私こそが、 水に調べられている気がしてならなかった」と人間を見るのが詩人の役割だと思うのです。
 私は生業が物理・化学に関係しているせいか、こういう作品が大好きです。「定義」は定義としておもしろいけど、それを人間の感覚や感情に引き寄せるのはやはり詩人・文学者の仕事だと思います。その両面を見せてくれた作品だと思いました。



詩誌『布』16号
nuno 16
2002.11.1 埼玉県戸田市
阿蘇豊氏他発行 200円

 バトミントン昇天/先田督裕

パパ、バトミントンであそぼ
小学2午生の次女に追い立てられ
休日の午後
自転車で公園まで
春の風
でもバトミントンには風がない方がいい
サーブを打つたび空振り
次女はいきなりラケットをほうりなげ
そばに咲いているシロツメクサを摘み始めた
そうかシロツメクサか
シロツメクサの花輸ができるまで
ぼくはひとり
バトミントンのシャトルを天に向けて打ち上げる
たかーく
たかーく
太陽のまぶしさに負けるもんか
風に押し戻されるシャトル
風とのラリー
首がよじれそうになったころ
パパ、よくそんなのできるね
次女がシロツメクサでつくった輪っかを
頭にのせてくれた
天国に来たような居心地のわるさ

 そんな幸せを絵に描いたような詩をつくるなよ、と思いながら読んでいって最後の行に出会いました。ウーン、唸ってしまいましたね、さすがです。「天国に来たような居心地のわるさ」。判るなぁ、この感覚。おそらく男親なら誰でも持っている娘への感情でしょうか。自分がやってきたことを「シロツメクサでつくった輪っかを/頭にのせてくれた」瞬間に思い出したことでしょう。ちょっと想像し過ぎかな? でも、そんなことを真剣に考えさせられた作品なのです。



詩誌『ひょうたん』19号
hyoutan_19
2002.12.10 東京都板橋区
ひょうたん倶楽部・相沢育男氏発行 400円

 ザンザカ/阿蘇 豊

雨は雨らしくふれ
ザンザカふれ

ノラ猫のひげをぬらし
屋根という屋根をぬらし
天井をぬらし壁をぬらし
机の引き出しの奥の封筒の中の
ツンとすました眉のような文字にしみこんで
根こそぎ透明にするまで

雨なら雨らしくふれ
ザンザカザンザカふれ

先週の日曜のあんな
くたびれた霧吹きのような
ぐずぐずのイジイジの雨はもう
まっぴら

雨が雨らしくザンザカふれば
おれの男もザンザカぬれて
尻ポケットのマツチの火照りも
無精ひげに絡まった思感も
かじりかけのりんごの歯のあとも
みんな地べたに流して
ザンザカザンザカ
きれいさっぱり忘れてやる

 「ザンザカ」というタイトルを見て、すぐに「あめ」という詩を思い出しました。亡くなった横浜の詩人・山田今次さんの1947年頃の作品です。「あめはぼくらを ざんざか たたく」という有名なフレーズがあります。それを知っていましたから、負けるかな、と思って読みましたけど、どうしてどうして、立派に対抗できる作品だと思います。「天井をぬらし壁をぬらし/机の引き出しの奥の封筒の中の/ツンとすました眉のような文字にしみこんで」というように、どんどん細かいところに入っていくところなど、今次さんと違った視点でおもしろいですね。
 なにより男らしくていい。「ザンザカザンザカ/きれいさっぱり忘れてやる」ときっぱりしているところなど、読んでいてスカッとします。山田今次さんの血筋が同じ詩人として遺伝しているのかな、とも感じさせた作品でした。



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