きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科 |
2003.1.21(火)
ピロリ菌を退治して1年。その後の経過を見るために、また内視鏡のお世話になることになっちゃいました。医者にはそんな必要は感じないと宣言したのですが、却下されてしまいました。で、内視鏡を飲むのは苦しいし、人間の尊厳を犯されるようで嫌だとさらに食い下がりました。そうしたら、全身麻酔という手もあると言われてしまったのです。全身麻酔? これって経験ないからおもしろそう、、、ということで受けてみました。
本当に全身麻酔ってすごいもんですね。血管に注射されて5秒ほどは意識があったんですけど、気付いたらベッドの上で、3時間ほどが過ぎていました。その間の記憶はまったく無し。何をどうされたのか、まったく判りません。無事に内視鏡検査は終っていたようです。しかし、怖いもんですね、自分の意識がまったく無いところでコトは進んでいる。ちょっと人生観が変わりそうです。
○藤谷恵一郎氏詩集『喪失の宙(そら)』 ポエム・デュバーンNo.010 |
2003.1.15 京都府長岡京市 竹林館刊 800円+税 |
幼子
幼子は
詩人の想像力の頂点より
ほんのすこし高みにいる
諸手を広げ その宙(そら)を駆ける
宙の神秘な密度の中を
胎内に応答するかのように
叫びながら
子供は大人の詩人よりも詩人だとはよく言われることですが、「詩人の想像力の頂点より/ほんのすこし高みにいる」という視点は新鮮ですね。翻って考えると、詩は「ほんのすこし高み」にあるだけなんだろうとも思います。そして、この作品の素晴らしいところは「胎内に応答する」というところでしょう。あくまでも人間の身体に還元するところが著者の特徴でもあるように思いました。
第二詩集だそうですが「こすもす」「ゆらぎ」など、まさに「喪失の宙」をうたった作品が多く、特異な感性を感じさせてくれる詩集です。
○詩とエッセイ『樹音』43号 |
2003.1.1 奈良県奈良市 樹音詩社・森ちふく氏発行 400円 |
夜明け前/中谷あつ子
仕事がすんで
窓のない
壁の前で
ホッ としながら ボンヤリと
明け方を感じとっている
いやなことも よいことも
重なり 重なり
尾びれが ついて
やってくる
萎れる前の 花弁のように
右に 左に 揺れて
からかいながら
おもしろげに
せめながら
舞い上がる
頭の上
夢か
うつつか
現実か
さだかでない
しびれる
頭をもたげて
窓の方向に
視線をやる
うまい話が あった夜
作者は徹夜勤務のある職業に就いているのかもしれません。「窓のない/壁の前で」とありますから、これは家庭ではなく職場と考えた方が良いでしょう。「いやなことも よいことも」「尾びれが ついて/やってくる」のは職場が多いですからね。それだけならどうということはないんですが、最終連がすごい。「うまい話が あった夜」という一行で詩が成立し、読者を引き込んでしまったと思います。読者も想像を刺激されて、自分の身に置き換えてこの作品を読まざるを得ません。「うまい」作り方だなと思いました。
○機関誌『未知と無知のあいだ』16号 |
2003.2.1 東京都調布市 方向感覚出版・遠丸立氏発行 250円 |
今号から遠丸立氏による評論「林芙美子の詩、ふたたび」が始まりました。『放浪記』で有名な林芙美子は、その著作の序や後書に詩を入れるという形で詩の発表をしていたようです。浅学にして知りませんでした。さらに浅学だなと思い知らされたのは、林芙美子が従軍記者だったということです。このことは広く知られていたことのようですから、いかに戦後生れであるとはいえ浅学の謗りは免れませんね。
そんな従軍手記の中で書かれた詩が20編ほど紹介されていました。その中から1編を孫引きで紹介してみましょう。
愛する馬よ、
お前の眼は何という淋しい眼。
兵隊がいなくなると、
兵隊を追ってゆく馬よ、
可愛い軍馬よ、
神様がお前の耳を愛撫している。
神様が、鉄蹄のないお前の爪に、
冷い水をそそいで下さる。
兵隊はお前の大きな口に、
乾草をいれてやりながら、
やさしい口笛を吹いてくれる。
人参がなくっても、
塩がなくても、
ここには泥水と草がある。
お前の好きな兵隊がついている。
雨の降りしきる泥濘の道に、
お前も兵隊も脚を埋めて進む。
段々砲弾にもおびえなくなった軍馬、
可愛い眼よ。
手袋なんかとって、
私はお前の鼻をそっと叩いてあげよう。
(十月十七日 晴)
従軍記録『北岸部隊』の中に収められている詩だそうです。1938年、芙美子35歳のときの従軍だったようです。遠丸さんも「芙美子は馬が好きだったらしい」と書いていますが、その通りのようですね。そして、他の作品で判ることですが、兵隊も好きだったようです。黙々と、あるいは愚直にと言ってもいいでしょう、任務を果す姿に愛着を感じていたように思えてなりません。
『放浪記』を中心として作家としての芙美子を論ずる書物は多くあります。しかし詩人≠ニして論ぜられことは少ないのではないでしょうか。今後の展開が楽しみな評論です。
今号では私も執筆させていただきました。近況、特に化学との関連について書け、という指示でしたので、下記のような愚作を載せさせていただいております。備忘録のつもりで転載します。
近況 化学と文学 村山精二
私の生業は化学工場の技術屋です。化学は環境破壊の元凶のように見られていて、ちょっと肩身の狭い思いもありますが、これで30年もメシを食っていますからいまさら生活を変えようがないのも事実です。ただ、救われたなと思っているのは、基礎研究分野ではなく化学工学と呼ばれる分野を歩いてきたことです。世に害を与える、新たな化学物質を生み出す仕事ではなく、生産プラントの最適化・効率化などを手がけてきました。大気中へ放出される有害物質の除去を担当したときは、やりがいのある仕事で胸を躍らせたものです。
普段の仕事は新しい機械を設計したり、その導入・製造部門への引渡しなどですが、常に不満が残ります。理論の未熟や物質の不安定さなどから、決して100%満足することはあり得ません。それに加えて、機械は必ず古くなるという運命を持っています。どんなに最新の理論で最新の設備を造っても、10年後、20年後には陳腐になっていきます。20年前に手がけた設備をたまに見に行きますが、現在の眼で見ての理論的な欠点や錆の浮いた姿は、とても正視できるものではありません。そこに働く人たちにいつもすまない思いで帰ってきます。
そこでいつも思うのが、文学です。もちろん文学にも古さという概念はありますが、古いものはそれはそれで新しいと思います。万葉集や源氏物語を持出すまでもなく、その時代でしか書けないものは貴重ですし、何より人間の基本的な精神に変化はないわけですから、千年前の文学でも通用しています。これは実に素晴らしいことです。理系で対応できるとすれば、理論しかありません。人間の基本的な精神に匹敵するには、真理を伴った理論ということになるでしょう。そのほとんどが古典的な理論であるというのは、これはこれでおもしろい一致と言えましょうか。
もともと文系の頭で入社しましたから、事務でもやらされるのかと思ったら、いきなり実験室に配属になりました。生れて初めてフラスコを持って、溶液を調合しているときに閃くものがありました。フラスコ中の液の色が変っていったのです。すべてではありませんが、自然現象は具体的に眼に見える形で姿を現します。そこに感動があります。ならば文学も具体的に眼に見える形で表現すべきではないのだろうか。抽象を具象化することによって、より抽象を表現できるのではないだろうか。フラスコの中の眼に見えない反応というものは、色を変えるという具象によって我々の知らない分子・原子の世界を表現したのだと思います。
化学・化学工学と文学。底は浅いのですが二つの分野に身を置いた幸せを感じています。
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