きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科 |
2003.1.30(木)
2ヵ月間、計4日に渡る社員教育の最終日でした。小田原にある研修施設に一日中缶詰になっていました。若手技術者を集めてのトラブルシューティングの研修で、毎回12名ほどの少数精鋭教育です。私はインストラクターを管理するアドバイザーという立場ですから気楽なものですが、今日はそうはいきませんでしたね。インストラクターのひとりが急遽欠席になってしまったのです。そういう場合の補充の役割も担っていますから、当然私の出番となったのです。
最終日の今日は、研修の成果として研修生が職場のトラブルを持ち寄ってきました。最も重要で、インストラクター・アドバイザーとしては最も緊張する一日なのです。でも、我々には解決を求められているわけではなく、解決のアドバイスができれば良いのです。解決する主人公はあくまでも研修生。専門知識が必要な場面が多いので、いかに我々でもそこまでは無理です。しかし、トラブルという現象には一般的な法則があり、それを勉強してもらったわけで、我々もその見地からのアドバイスができます。多くの研修生は眼を輝かせて納得してくれていましたから大丈夫でしょう。職場に戻って、彼らが自分の力で問題を解決して、職場からの信頼をかちとることを願うばかりです。将来は管理職・役員になっていく連中ですから、成長を見守る楽しみもあります。
○詩誌『東国』122号 |
2003.1.10 群馬県伊勢崎市 東国の会・小山和郎氏発行 500円 |
明日はどっち/井上敬二
伸びきったストレートが
ダッキングをした力石の髪を払い
そのままアッパーを叩き込まれる
ジョーがノックアウトしようとしたものは
ただ怯えつづけた自分の影
そこに汗が流れたのさ
まったく勝てる気がしねえや
なんて
こっちはいつももそうだった
二度もテンカウントを聞いて
観客席に居並ぶことに決めたんだ
それが国家だから
コーナーから迫ってくる亡霊のようなあいつに
応えようもなく
手も足も出ない
ただ
へへ、へへへへ
ジョーがそうだったように
笑うしかないね
ノックアウトされたあとも
やっぱりあんたは強えってさ
それで
闘うことをやめたのさ
臆病で汗かきの西のように
だから休日の遊園地はスリルを求め
脹やかだ
自治会長を陣頭に巡る春
ドブ板を整えるための
陳情の列が町中に体臭を落とす
泪橋の下にも
流れる水の温む春
まったく
こんなくれえのゴミが結まったって
いちいち連絡してよこすんだぜ
自分でなんとかすりゃーいいのに
と
会長が隙だらけの構えで
両手を胸元にかざす
−「あしたのジョー」ちばてつや 朝森高雄作 より−
漫画「あしたのジョー」がモチーフになっていますけど、「自治会長」と「会長」がうまく懸かっていると思います。後者の会長はジョーが所属するボクシング・ジムの会長です。そしてタイトルは「明日はどっち」。後に?マークを付けたくなるほどのタイトルですね。
「闘うことをやめた」男は「休日の遊園地」で「スリルを求め」、「ドブ板を整えるための」「陳情の列」に対処しているのかもしれません。それはつまり「それが国家だから」。本当に「明日はどっち」?と途方に暮れている私たちの姿が見えるようです。
○太田富子氏詩集『風のつり橋』 |
2003.2.1 神奈川県横須賀市 山脈文庫刊 2000円 |
小抽斗から
幕山の黒黒坊主が今朝見れば
雪に降られて白白坊主
母が残した桐箪笥の小抽斗
そこから出てきたノートの幼い文字
けなげな母の気色は映る
ドーラビーラ遣跡発掘が報道された日
幕山へでかける
ロック・クライマーは
願望の腕を蜘妹と伸ばし
この世にへばりつき よじ登る
わたしは六三五メートルを母に押される
遥かにのぞむ相模湾
緑の翼を広げる眞鶴半島
梅林の梢を縫って渓流が走る
母の古里は頬を染めて存在した
春なのにまだ届かないぬくもり
にわかに降りだした粉雪に
寸断された思いが降りしきる
雪に降られて白白坊主
痛みにも似た覚醒
岩壁にはりつくもののように
遠い影や小抽斗のノートにさえ
思いきりザイルをなげる
「幕山」は神奈川県湯河原町にある箱根外輪山のひとつですが、標高600mほどのおだやかな山です。私も何度か行っていますが「梅林」もあって、なかなか良い所です。熱海の梅林、小田原・曾我の梅林などは全国的にも有名ですけど、幕山の梅林は隠れた名所というところでしょうか。地元の人からは慕われている山です。
著者の母上は湯河原町のご出身のようですね。歌は「幼い文字」とありますから、短歌を習い始めた女学生の頃のものでしょうか、素直な感動が伝わってきます。それを発見した著者が「母に押され」て幕山を訪れる。そこは「にわかに降りだした粉雪」で、まさに「雪に降られて白白坊主」。母と娘の時を隔てた邂逅の場面として見事だと思います。ただし、それは単なる邂逅ではありません。「痛みにも似た覚醒」があって「遠い影や小抽斗のノートにさえ/思いきりザイルをなげる」心境です。そこは注意が必要だと読み取りました。
小田原という歴史ある土地に生れ育った著者が文学的に経験した作品は、紹介した詩の他に「水車小屋のほとり」「提灯祭りのころ」「網の中」などに見事な昇華があると思いました。地理的、地形的、文化的にも恵まれた土地で育まれた感性が美しい形で表出した詩集と言えましょう。
○季刊文芸誌『南方手帖』72号 |
2003.2.10 高知県吾川郡伊野町 南方荘・坂本稔氏発行 800円 |
砂の二態/清岡俊一
砂時計の砂には
互に干渉しあわない
強い意志があるのだろう
そうでなくては
あの狭くなった隙間を
いとも容易にぬけ去っていく
珠のような技があるとも思えない
踏みしめたときの軋み
なき砂の砂には
傷つきやすいこころが
宿っているはず
おそらくは鋭角のこころが
日々に涙しても
生存のあかしを主張するのか
いかようにもかたちを変えて
いかようにもかたちを保つ
どちらも技冴え
岩から砂への過程で
本質を残す
わたしはわたしで
わたしをこ擦りあわせてみるのだが
「砂時計の砂」と「なき砂の砂」の「二態」がちゃんと「本質を残」しているが、さて「わたしはわたしで/わたしをこ擦りあわせてみるのだが」「二態」はあるのだろうか?という作品です。その疑問は疑問として、私には砂を「二態」として見る眼が新鮮に写りました。
他の文章から推測すると作者はどうも化学者のようです。私も化学工学という近い分野を生業としていますから、多少は理解できるのですけど、上を行っているなというのが正直な気持です。「互に干渉しあわない/強い意志がある」とは考えなくて、角が取れているからではないか、電気的に反発しあうのかもしれない、などと考えてしまうのですね。
化学と文学は実は近いと常々思っています。それは「互に干渉しあわない」を化学的・物理的に捉えれば角・電気的≠ニ考えられるけど、文学的に捉えると「強い意志がある」になって、どちらも正しいと思うことに由来します。そういう作品を作りたい、そういう作品を読みたいと思っているところでこの作品に出会いました。「二態」は実はその倍の「四態」になるのではないか、そんなことも考えながら楽しめた作品です。
○詩誌『環』107号 |
2003.1.20 名古屋市守山区 「環」の会・若山紀子氏発行 500円 |
照らされているのは/菱田ゑつ子
重く閉ざされた扉が
夕日に照らされている
人を轢いた車と
乗る人のいなくなった車は
それぞれの家の車庫で
じっとしている
二台の車は
まるで互いの陰のように
おなじ時間を
寄り添う
けっして元には戻せない
深い紺青の溝がひかれ
せつない往還をゆるしている
一台はひっそりと
一台は
もうそのままずっと
息を潜めつづけねばならなかった
「車」は「乗る人」があって始めて価値のある物。それが「それぞれの家の車庫で/じっとしている」というのですから、「車」にとっては無念でしょう。それがテーマになっていると思うのですが、どうも違うように感じられてなりません。「車」とは「人」の喩だったらどうだろうと考えています。もちろん作者の意図とは違うかもしれません。読みに少々無理が出てきますけど、別に整合性が必要なわけではありません。そんな読み方をした方がおもしろいんだろうなと感じた作品です。
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