きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科 |
2003.1.31(金)
東京本社の営業部の課員が訪れて来て、来期の製品開発依頼をして帰りました。開発は、以前私がいた技術部門の仕事ですが、開発された後は私が品質保証をしなければなりませんので同席を求められました。いくつか提案された半分は自信が持てますが、あとはどうも…。第一線の営業部隊はお客さんの要望を聞いてきて、それを製品に反映させようとします。それはそれで正しいことですが、製品として不安定であったりコストが掛かり過ぎたりすると、結局はお客さんに迷惑を掛けてしまいます。だからこそ技術部門や評価部門が集って検討するわけですけど、どうも当社の体質として慎重過ぎるのではないかとも思えます。
自分の勤務する会社を褒めてもしょうがないんですが、そこは大事なところだと思います。バブルの頃にいろいろな会社が土地投機や株に手を出して失敗しました。当社もやろうと思えばやれた環境にありました。正直なところ私などなぜやらないかイライラしたほどです。でも愚直に本業以外はやらないと上層部は突っ張っていましたね。結果的にそれが良かったのだと今にして思います。そんな思いがありますから、慎重であることは弊社の特質だと納得しているのです。でもなぁ、それで変り身の早い世の中で生きていけるのかなぁ。まあ、会社の経営は私が心配することではありませんけど、そんなことを考えながら臨んだ会議でした。
○山田直氏詩集『十二支の詩』 緑の笛豆本・第103期第411集 |
2003.1.1 青森県弘前市 緑の笛豆本の会刊 非売品 |
丑
ぼくの牛はいつも荷車をひいていた
繋がれて口をもぐもぐ動かしていた
いつ果てるともなく尻尾で蝿を追っていた
ぼくはいつも人生に不満だったから
悟りすました牛の目が苦手だった
今ぼくのまわりに牛はいなくなった
悟りに出会えぬぼくは 幸か 不幸か
平成九年(一九九七)丁丑 元旦
写真では大きく見えますが、実は小さな本です。幅75mm、高さ95mm、厚さ10mmほどですから、上の写真は6割ほどを表現していることになります。頁数も34頁ほど、まさに「豆本」です。
作品は十二支ですから12篇。「丑」を選んだのは私の干支だから、という理由だけです。年賀状に書いていた詩をまとめてみたとあとがきにありました。さらに「めでたすぎる詩は現代詩として価値に乏しい」と続いていますが、どうしてどうして。「悟りに出会えぬぼくは 幸か 不幸か」と書かれた年賀状をもらったらドキリとするんじゃないでしょうか。年賀状に詩が書かれているのは最近多くなったように思いますが、それも立派な作品と言える見本のような詩集です。
○詩誌『馬車』27号 |
2002.10.5 千葉市美浜区 久宗睦子氏発行 非売品 |
地球照り/山本みち子
だれも居ない夜の運勲場で
鉄棒が かすかに軋んでいる
鉄棒の軋む先には
裏返った運動靴が片っぽ
<あした天気になあれ>
セーターの袖口が いつも綻びていたのは
淋しさを少しづつ噛んでいたから
叱られて わたしの背にかくれる首筋は
もう その頃から乾いた草の匂いがした
あやうい新月の上に
綿菓子のようなたましいを載せて 弟は
空のまほらで逆上がりをはじめる
地球照り…新月の時、地球から反射した太陽光が月の暗黒面を簿明るく照らすもの。チキュウショウともいう。
作品の上での事実として「弟は」「あやうい新月の上に」「綿菓子のようなたましいを載せて」いるのですから、幼いときに亡くなったのでしょう。第3連では弟さんの姿が具象化していて見事です。私にも亡くなってはいませんが弟・妹がいて、彼らの幼かったころを思い出します。新月に起きるという「地球照り」は、弟さんの魂のなせるものと受けとめたこの作品は、高い抒情性を持っていると思います。扉詩でしたが、この詩誌の格調を高める効果ももたらしています。
○詩誌『ふーが』29号 |
2002.12.1 滋賀県彦根市 ふーがの会・宇田良子氏発行 非売品 |
ぼくらの世代/村田好章
夜遅く
友人がリストラに遭ったと電話してきた
酔っているようだ
貴重な存在であったつもりが
いつのまにか
便利な存在からも滑り落ちていたと
自嘲気味に吐露する
希望退職を募るらしい
そんな社内のうわさに
明日は我が身のおもいで耳をかたむけている
会いたい 飲もう
それしかいえなかった
友人は
気の強い奥さんにどう伝えたのだろうか
こどもはまだ高校生のはず
それなのに友人の声には
ほっとしている響きがあったように感じた
背負いつづけていたものをおろし
失うものと背中合わせに
手に入れたものがあるのだろうか
友人がひとつ先をゆく
夜明けが近い
たぶん同年代でしょう。私も身につまされます。特に「貴重な存在であったつもりが/いつのまにか/便利な存在からも滑り落ちていた」というフレーズはキツイですね。「友人がひとつ先をゆく」と言うときの複雑な心境も理解できるつもりです。でも本当に「夜明けが近い」のだろうか? 羊のように反抗もせず殺されていく私たちに「夜明け」は来るのだろうか? そこは多いに疑問なのですが、それも屈折した「ぼくらの世代」の見方かなと思います。
なお、脱字がありましたので勝手に修正しました。お断りしておきます。
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