きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

  kumogakure  
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科

2003.2.11()

 昔の紀元節(体験してませんけど^_^;)、今は建国記念の日ですね。問題はありますが、まあ、休日なのはうれしい。一日中書斎にこもってHPの更新をしていました。一緒に仕事をしている女性たちにときどき質問されます。「お休みだった昨日は何していたの?」。答はいつも、「書斎にこもって本を読んでいました」。で、反応は「バカみたい。あんなにいい天気だったのに!」。明日も同じ繰返しだろうなぁ^_^;



  季刊詩誌『無限』50号
  mugen_50    
 
 
 
 
2003.1.30
栃木県下都賀郡藤岡町
本郷武夫氏 発行
非売品
 

    桃の香り    深津朝雄

   小さな肩と
   赤いランドセルを並べて
   少女二人が
   山に向かって立っている

   「ひろみちゃん 山を描いてくれる」
   「うん みさきちゃんは麓の家を描いて」
   それぞれが腕を高くのばし
   指を立てて
   空に山を 家を描きはじめる
   その時
   雲から千切れた一羽の白鷺が
   山のみどりに
   白線を引いて飛んで行った
   「きみえちゃんがいるとよかったね」
   「そうね 白鷺を描いて貰えたのにね」
   やがて二人は 掌で絵を消すと
   何ごともなかったように去って行った

   あとに
   少女たちの心の
   僅かな重みの
   桃の香が残っていた
   それは
   消し残した絵の匂いでもあった

 「指を立てて/空に山を 家を描きはじめる」という何とも微笑ましい光景で、心が洗われた思いがします。さらに「桃の香が残っていた/それは/消し残した絵の匂いでもあった」と締めくくるあたりは、作者の人間的な深みさえ感じます。それにしても女の子と男の子は違うのでしょうか。私の子供時代にはそんなことをした記憶がありませんが、女の子たちはやっていたのかな? きっとやっていたのでしょうね。今も昔も変わらないとしたら、何か将来に希望が持てるような気がします。最近の詩では珍しい、心あたたまる作品だと思いました。



  詩誌『現代詩神戸』202号
  gendaishi kobe 202    
 
 
 
 
2002.12.13
神戸市東灘区
和田英子氏 発行
400円
 

    長生きの理由    佐藤勝太

   長年生きたということは
   沢山のものを捨ててきた
   落してきて
   やっと座って居れる
   場所を得たという
   ことか

   同世代のAは欲深く
   金を貯めたばかりに
   またBは貧しい根性から
   有名病で
   Cはスケべエが度を過ぎて
   早々にあの世へ
   行ってしまった

   また戦争が始まろうとするのに
   お前らは
   あのすさまじい戦闘の場面を
   見ないで
   神や仏になってしまった
   血や肉が飛び散り
   骨がべラべラに砕かれる
   スリルと快感を
   俺は朝の新聞で
   夜のテレビで痛感し
   昼は平和な夢を
   食っている

 「早々にあの世へ/行ってしまった」「神や仏になってしまった」「お前ら」に対する憐憫とも受取れますが、実は違うのではないかと思って読みました。表面的には「スリルと快感を/俺は朝の新聞で/夜のテレビで痛感し」ていることになりますけど、その裏側の忸怩たる思いを読むのは読み過ぎでしょうか。「長年生きたということは/沢山のものを捨ててきた/落してき」たことだと冒頭で書いているのに、ちっとも捨てられない、落とせないと読めるのです。
 真意は判りませんが、そんな読み方があってもいいのかな、と感じた作品でした。




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