きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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「クモガクレ」 |
Calumia
godeffroyi |
カワアナゴ科 |
2003.2.14(金)
日本ペンクラブの電子メディア委員会と言論表現委員会の合同委員会が開催されたのですが、行けませんでした。「個人情報保護法案」「人権擁護法案」への対応が話し合われ、新聞社の取材もあったはずなんですが…。直前まで仕事の調整をしてみましたけど、やっぱり無理でしたね。
日本詩人クラブの理事と、日本ペンクラブ委員会副委員長という両立はかなり難しい現状になってきています。詩人クラブ理事は今年5月で任期が切れますから、それまでは理事の仕事を優先し、5月以降は副委員長の仕事に専念したいと思っています。会社の仕事をやりながら社会的な仕事をするのはかなりシンドイなと思ってきています。でもまあ、ひとつぐらいなら何とかなりそうです。
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2003.2.20 |
東京都豊島区 |
詩人会議出版刊 |
2000円 |
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ほんとうの死
与えよ!
われわれほんとうの死を死ねなかったものに
ほんとうの死を返してください
死者の叫ぶ声がどこか底のほう
古沼のあたりから
立ちのぼってくるのが聞こえる
あのとき戦いや飢えで
消えたいのちは(消されたいのちは)
ほんとうの死でない
貸しも与えもしないのに
いのちばかりか
死までも他人に盗まれたのだ
後ろを振りむいたフランスの馬は*
一瞬、二百万世紀も以前を見たという
死はその空白さえ見えない
死者は自分のほんとうの死を
せめて人らしくまっとうしたい
あなたは、どの死の沼から叫んでいますか
* シュベルヴィエル「動作」
前詩集『アウシュヴッツの後で』に続く詩集、と帯文にありました。本詩集の「序」では次のように書かれています。
〈アウシュヴィッツの後で、詩を書くのは、野蛮だ〉といったア
ドルノの、〈アウシュヴィッツの後でも、生きることができるか問
うことは間違いではない〉という、晩年に残した言葉を引用して、
作品集を提示したのが、さきの『アウシュヴィッツの後で」であっ
た。
その「生きること」とは、実は「ほんとうの死を」「まっとう」することなのだとこの作品から知らされました。私たちはどうしても死は死でしかないと思いがちですが、そうではない、「あのとき戦いや飢えで/消えたいのちは(消されたいのちは)/ほんとうの死でない」と知らされたのです。そして、「死までも他人に盗まれ」るのだとも教えられます。視点を変えるとこういう見方もできるのかと驚くと同時に、それが本当の見方なのではないかと思うようになってきました。
死を通じていかに生きるか、あるいは生きられないのかを考えさせられた作品です。
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2003.1.29 |
東京都東村山市 |
書肆青樹社刊 |
2300円+税 |
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挙手の礼
父は素直だった
救急車で入院のときは
「これでいよいよ大往生じゃ」
老僧もどきの気構え
----やがて意気込みは
おむつになり 点滴になり
言葉さえ失った
季節はいつか桜から向日葵へ
低いエアコンの音が
終日父をやわらかく
包みこみ
病室は明るい水底のようだ
足音を消して近づく娘
わずかな気配を感じて
薄目をあける父
目尻に小さな水玉をのせて
そのおだやかさ
ゆるやかさは
すでに天上のもの
能役者のように
ゆっくりと右手を持ちあげる父
娘の肩越しに誰かを見ている
戦場を駆けめぐる
通信兵だった父の
それは戦友の姿でもあったか
灰色の眉毛の先にかかる
軍隊式挙手の礼
節くれだった一枚の枯葉
(右と言えば左 誕生日を祝うと言えば
なにが目出たいか 語気を強めた人だった)
挙手の礼をつづける父
息を詰めて 棒立ちの娘
海ゆかばさよならばかり挙手の礼 愛子
父上との惜別をうたった作品ですが、人間像が深く描かれていると思います。軍人だったせいか、古武士然とした雰囲気を感じます。表面的には淡々としてますけれど、最終行の「息を詰めて 棒立ちの娘」というたったひとつのフレーズで、作者の本当の胸のうちを知ることができます。そこで読者は初めて作者の深い哀しみを知るのではないでしょうか。それまでが淡々としていますから余計に胸を打ちます。そして、静かに置かれた作者自身の句が見事に作品を締めていると思います。
他の作品も全体に淡々としていますが、その奥の作者の心理が透けて見える好詩集だと思いました。
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2003.2.10 |
横浜市金沢区 |
横浜詩誌交流会事務局 発行 |
非売品 |
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横浜に発行所を置く13誌の「交流会」会報です。全国的にも珍しい団体ではないかと思います。
各誌から1名が代表でエッセイを書いています。その中で詩誌『青い階段』同人の八潮れんさんという方が書いている「熱く語るひと」に注目しました。コーヒーチェーン店の「スターバックス」が長野市にないので、長野市の20代の女性が署名を集めて誘致運動をアメリカ本社に働きかけているというものです。作者は、もっと大事なことがあるだろうと憤るのですが、そのうち同情し、最後には彼女は輝いているのだ、と認めます。
認める理由は「なにごともはじめはものまねで稚拙なものだから」であると読み取れます。作者自身も長野出身で、横浜という大都会に暮して20数年だそうです。その経験から件の女性の心理が判り「心底同情」するようになるのですが、私はこの作者の思考の変遷が重要だと思いました。すなわち、憤ることは簡単で誰でもできるのですけど、同情し、認めることは意外と難しいのではないかと思うのです。認めることができるのは、己の精神が大きく広くなければできない相談です。あぁ、そうなんだ、と勝手に感動して拝見しました。
私事で恐縮ですが、私のことも書かれていました。『詩のパンフレット』の植木肖太郎さんが、私がしばらく前にやった朗読について「自分の詩の持ち味のすべてを出し切っていた」と好意的に書いてくれています。本人は巧いとは思っていませんけど、素直に受けとめさせていただきます。ありがとうございました。
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