きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

  kumogakure  
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科

2003.2.24()

 業務依託会社のうちの一社の担当者に来てもらいました。問題が起きているのですがなかなか解決しません。解決しないのはともかくとして、途中の経過報告が少なくて、私もいささか業を煮やしました。呼びつけたという形になってしまいましたけど、やむを得ないと思っています。こちらもサラリーマンですから、依託した製品がきちんと出来なければ私の監督責任が問われてしまいます。

 来てもらって説明を受けたのですが、どうもはかばかしくありません。しばらく悩みそうです。夜中に夢の中でヒントが出てくることがあるんですけど、今回はそううまくいくかな? 起きている現象を理屈で攻めるしかないでしょう。あーぁ、早くスッキリしたいな。



  季刊会報『沼声』271号
  syosei_271    
 
 
 
 
2003.2.22
静岡県沼津市
沼津の文化を語る会・望月良夫氏 発行
年間購読料2500円
 

    一○○歳    宮治 眞

   「あんた、達者か」
   「ちょっと、血圧が高くてね」
   「そりゃあ、あんた、いい医者にみてもら
   わなけりゃあ、ダメだよ」

    私の外来通院で初めて一○○歳になったお
   ばあちゃん。胆石だが、手術ができず、すで
   に数年前から胆管に管を入れて胆汁を流して
   いる。そのおばあちゃんから手紙がきた。お
   ばあちゃんを中心に一○○歳を祝う一家の写
   真が載った地域の新聞が同封されていた。

    私はおばあちゃんの家に伺い手紙の御礼と
   ともに、よもやま話をしてきた。冒頭の会話
   はそのときのこと。だが私はなんとなく、私
   がお祝いにかけつけた近所の人と誤解されて
   いるのではないか、と感じていた。
    三週後の月曜日、おばあちゃんは私の外来
   を訪れるなり、開口一番。
   「あんた、いい医者にみてもらったか」

 400字詰め原稿用紙1枚に書くことが義務づけられた「赤富士」というコーナーにあった文章です。思わず笑ってしまいましたが、笑ったあとにいろいろなことを考えさせられました。まず、100歳にもなると医師なんか子供や孫と一緒で、怖くないんだろうなと言うこと。医師に対して「あんた、いい医者にみてもらったか」と言うのは、冗談と分かっていて言っているのかもしれませんね。あるいは医師の専門が細分化されていますから、そこを突いたのかもしれません。考え過ぎかな?

 もう一点は作者の度量の広さです。いかに相手が超高齢者とは言え、侮辱ととってもおかしくない話です。それを笑い話として載せるのですから、これは狭量な人にはできないことだと思います。医師で作家・エッセイストは多いのですが、この作者もまた立派な文章をお書きになる度量の広い方だなと思った次第です。



  月刊詩誌『柵』195号
  saku 195    
 
 
 
 
2003.2.20
大阪府豊能郡能勢町
詩画工房・志賀英夫氏 発行
600円
 

    ぼくの世界    丸山全友

   窓に差し込む日ざしはわかっても
   太陽の形や色はわからない

   部屋の形はわかっても
   家全体の形はわからない

   窓から見える空の広さはわかっても
   窓全体の広さはわからない

   庭木で鳴く鳥たちの声はわかっても
   その姿を見ることはできない

   窓から見える山の木はわかっても
   山全体はわからない

   ラジオやテレビで
   世界の出来事はわかっても
   家の中の出来事はわからない

 作中の「ぼく」は、何か障害があって一日中ベッドにいるのかもしれません。そう思って読むとすべての辻褄が合ってきます。
 重要なのは最終連でしょう。一日中ベッドにいても「
世界の出来事はわかって」いる。でも足元の自分の「家の中の出来事はわからない」。これは何も障害者に限らず、我々健常者と呼ばれる人間にもあて嵌まるように思うのです。「ラジオやテレビで」いろいろな知識を得て、世界中のことは判ったつもりでいる。でも、自分の家族や自分自身のことを本当に理解しているのだろうか? 自分の頭で考えて、深く感受しているのだろうか? そんなふうに想起されるのです。なかなか鋭い視点を持った作品だと思いました。



  津坂治男氏著鎮魂と癒しの世界 評伝・伊藤桂一
  chinkon to iyashi no sekai    
 
 
 
 
2003.2.20
大阪府豊能郡能勢町
詩画工房刊
2100円
 

 伊藤桂一さんの作品はそれほど多く読んでいるわけではありませんし、お姿も日本ペンクラブの例会や世界詩人大会・『地球』の詩祭などで遠くから見ていただけですが、それでもほのぼのとした中に毅然としたものを持っている方だなとは感じていました。芥川賞作家・著名な詩人という肩書きからは信じられないような庶民性も感じていたのです。

 著者の津坂治男さんは伊藤桂一さんと同郷(三重県)で、伊藤さんの講演会の世話役をやったりしているようです。日本詩人クラブ、日本ペンクラブの会員でもあり、私も何度か遠くからお姿を拝見しています。本著は月刊詩誌『柵』に2年間連載していたものの単行本です。毎号、私も楽しみに拝読していましたが、こうやってまとまってみると、やはり迫力があります。伊藤さんの曽祖父から始まる系譜の紹介は、ひとりの文学者を知る上で重要なことだと改めて感じました。名主の血統で、曽祖父・祖父は医師、父は比叡山に学んだ僧侶でハワイでも布教をし、母はホノルルで新聞記者をしながら連載小説も書いていた、などと知ると、人間味あふれる伊藤桂一という文学者の本質が判った気になっています。

 伊藤さんの作品は何と言っても戦記文学、時代物といった、いわゆる大衆小説ですが、お読みになった方は気付いていると思いますが、純文学としても読める作品が多いのです。それは詩人であるということにも由来しているのでしょうが、この評伝でちょっと違うなということも判ってきました。大衆小説・純文学という区別そのものが伊藤桂一文学には無意味なのです。そこのところを実に詳しく書いている評伝だと思いました。伊藤桂一ファンならずも、日本の文学史を学びたい方にはお薦めの一冊です。





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