きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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「クモガクレ」 |
Calumia
godeffroyi |
カワアナゴ科 |
2003.3.7(金)
久しぶりに休暇をとって、日本詩人クラブ理事会に出席しました。広報担当として「詩界通信」15号の案を提出しましたけど、15号はもう次の理事会の仕事になるんですね。私の仕事は現在進行中の14号で終り。15号の途中までは手がけますけど、完成させるのは次理事会の広報担当者の仕事になります。感慨無量です。広報担当に任じられて2年。紆余曲折もありましたし、嫌になることもありましたけど、何とか責任を全うできる形になりました。某同人誌を辞めたときは、詩人クラブも辞めて、広報の仕事も途中で放り投げようかとまで考えましたけど、それをやっちゃあオシマイよ、と、残り1年を頑張ってきたつもりです。ようやくその任を終えることができるわけです。執筆、校正でご協力いただいた皆様、ありがとうございました。
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2003.4.1 |
埼玉県鳩ケ谷市 |
思川舎・桜庭英子氏 発行 |
非売品 |
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草原まで 桜庭英子
投げつけられたことばを折り畳んで
すっくと立ち上がり颯颯と歩いてゆく
ことばの指し示した草原まで
たしかに香る草は芽吹いているか
たしかに麗しい花は萌えているか
土壌に比例して草花は根付くと言う
みどりの沃野には気高い花弁が
未開の湿地には淫靡な浮き草が
けれども泥田にこそ蓮の花が似合うように
けわしい懸崖にも可憐な花が咲くこともある
そうして思いがけなく
肥沃な草原にも毒草が繁茂していることだってある
「みどりの沃野には気高い花弁」「未開の湿地には淫靡な浮き草」「けわしい懸崖にも可憐な花」と見てくると、人間の世界そのものを言っているように思いました。そして「肥沃な草原にも毒草が繁茂していることだってある」というのですから、まさに人間社会の写し絵ですね。花を描いて人間を描く、見事な作品だと思いました。
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2003.2.28 |
名古屋市名東区 |
中部詩人サロン・滝澤和枝氏 発行 |
300円 |
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歌壇の花 阿部堅磐
----水の面にあや織りみだる春雨や
山の緑をなべて染むらむ 伊勢
癒されぬ胸を抱いたまま
宮中に再び出仕して来た私
今では男心の湖の底が
見えるようになった
歌詠みの私に
あの男(ひと)この男(ひと)から恋歌が届く
せめてこの文(ふみ)を見たとの返しが欲しい
と言って来た色好みには
見た≠ニのみ返しを贈る
(男(おのこ)にはもうだまされません)
こともあろうに
私の傷心の種となった人の兄上様まで
私に艶文(ふみ)を贈ってくる
私は深い溜め息を吐く
私は己れの文藻と心を磨き
強い女になっていくのを感じる
行われる華やかで心躍る歌合(うたあわせ)
私はそこで歌壇の花となり
美しく優麗な歌を詠む
同席の歌詠みの貴公子達は
私の歌の出来映えに
いくたびも感嘆の声を挙げる
けれど私の心は少し淋しい
ある夏の月光のさやけき宵
私は恐れ多くも
尊い帝(みかど)のお召しを受けた
帝は私の美貌と歌才(ざえ)を愛(め)でて下さった
その夜から帝の深い愛を私は得
真(まこと)の愛に目覚めた朝
私は心に決めた
この真珠のように輝く愛を
大切に大切に生きてゆこう と
伊勢−平安時代数々の歌会に出席し活躍した女流歌人、
「寛平御時后宮歌会」に唯一の女歌人として副題
に掲げた歌を出詠している。
煌びやかな宮廷歌壇を扱った作品ですが、人の心は時代を越えて変らないものだとつくづく思います。特に「こともあろうに/私の傷心の種となった人の兄上様まで/私に艶文を贈ってくる」というフレーズは現代にもそのまま当て嵌まりそうですね。歌壇における「私の歌の出来映え」は「いくたびも感嘆の声を挙げ」られるほどのものだが、「けれど私の心は少し淋しい」。この感覚は現代人を超えているかもしれません。平安朝と現代をつなぐ稀有な作品だと思いました。
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ルビがきちんと表現できなくてすみません。現在のインターネットで使える日本語には、ルビがサポートされていません。止む無く新聞方式+級数下げで対応してあります。
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2003.2.25 |
京都市右京区 |
洛西書院・土田英雄氏 発行 |
400円 |
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五月の晴れた日に 鎌たけひと
太陽がギラギラと輝いている
眩暈がしそうな青い空
生命の息吹が大きく呼吸をする
地上のすべてのものが上を向いている
木々の青葉
谷間を流れる水
校庭にあふれるこどもたちの声
空を飛び交う小鳥たちのはばたきが
喜びに満ちている
戦車が砂煙を上げて疾走しても
銃口が女たちに向けられても
ミサイルが発射されても
五月の晴れた日は
命の勢いが止まらない
「地上のすべてのものが上を向いている」というフレーズにまず目が行きました。そして第2連を拝見して愕然としました。アフガンやイラク戦争が忽然と現れて、それがまったく違和感がなかったのです。あぁ、こんなふうに詩がつくれるのだ、こんなふうに結び付けられるのだ、という思いを強くしたのです。もちろん逆説と採っても良いのでしょうが、ここは素直に受取るべきだな、とも思いました。短い詩ながら教えられることの多い作品です。
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2003.4.1 |
奈良県奈良市 |
鬼仙洞盧山・中村光行氏 発行 |
年会費8000円 |
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無財の七施(しちせ)
仏教最初の四天王寺は、孤児を救済する悲
田院だった。そして金銭が無くても、七つも
良いことができるのを、無財の七施と申すの
だ。眼施(げんせ)だが、優しい眼差し。顔
施(がんせ)は柔和な顔。つづいて言施(ご
んせ)、親切な言葉。身施(しんせ)、身体
を用いてだ。心施(しんせ)、やさしい心。
座施(ざせ)は席をゆずるだ。そして最後が
宿施(しゅくせ)で、家に入れ友人になる。
連載「鬼のしきたり(58)」の中の一文です。「無財の七施」とはいい言葉ですね。これなら誰にでも出来そうです。しかし、ちゃんとやるのは難しいでしょうね。このうちのひとつでも出来るように精進するのが人生なのかもしれません。特に「宿施」は難しいように思います。「家に入れ友人になる」、こんな人を何人持てるかが、その人の人生を左右するのかもしれません。
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