きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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「クモガクレ」 |
Calumia
godeffroyi |
カワアナゴ科 |
2003.3.12(水)
関連会社との定例会議のため、午後から都内に出張しました。私の担当する製品に不具合があって、その会社に迷惑をかけていましたから、ちょっと行き難い感じもあったんですが、問題の解決方法も判ったし、何よりその会社とは友好的な雰囲気が続いていますから、そこは安心して出掛けました。会議は思った通り順調で、弊社の問題点も理解してもらえて、終始なごやかに進みました。
この感覚は職場に戻って、実際に製造を担当している人達に伝えようと思っています。会社が大きくなると、どうしてもユーザーの声は現場に伝わり難くなるものです。それではキメ細やかな製品は出来ない。それは私のように現場とユーザーの双方を知っている者の役割だろうとも思います。その結果として弊社が社会的により信用されるようになれば、70年の歴史を持つ弊社の伝統が守れるものだとも思います、、、なーんて、口はばったいことは言えませんけどね^_^; 微力ながら最善を尽くすだけです。
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2003.3.10 |
東京都文京区 |
いしずえ刊 |
500円 |
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本をいただいて、その立派さと値段のギャップに驚きました。大きさはB6ですが140頁ほどの厚みで、ご覧のようにカラーのカバーと帯付きです。私の感覚ですと1500〜1800円という値段でしょうか。それが何と500円! 税別とはいえ文庫本並の値段にまず驚きました。帯には「詩って、こんなに面白い! 楽しい! あなたも詩をたのしみましょう! お手頃価格です!」とあります。詩集出版の新しい形のように思います。
あくび
電車の中で、真向かいに座った女が
一目もはばからず、大口開いてあくびをしたのを見た時
ふとある旅館の一場面が浮かんだ。
それは客の全く来ない、それでいて構えだけは豪奢な
その玄関の一隅が。
作品の一部です。判りやすく、喩がおもしろく、新鮮な感じで読み取りました。もう一篇みてみましょう。
川の字
以前川の字となり 家族がひとつべッドで眠ることを書いた詩人がいたが
我が家も同じく川の字となって眠る
ところで我が家では 川の字の左棒にあたるのが猫で
それを基点に 最も強い順番に 次の真ん中棒に妻が
押せ押せで 最後の右端棒にあたるのが 俺で
川の字となるか それを保とうとしつつも あるいはりの字に陥るかして眠る
小さい 小さいシングルベッドに
これもおもしろいですね。確かに「詩って、こんなに面白い! 楽しい! あなたも詩をたのしみましょう!」と言いたくなる詩集です。ちなみに表紙の写真は「伊豆高原
創作人形館ミワドール」の人形だそうです。著者と関係のある人形館ではないかと思います。行ったことがある人もいるかもしれませんね。ことによると、この詩集も置いてあるのではないかと想像しています。
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2003.3.1 |
横浜市港南区 |
新・現代詩の会 出海渓也氏 発行 |
850円 |
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老いの記 南川比呂史
老醜という言葉がある
年をとって醜いことと辞書に記され
年寄りはそれほど醜いのか
この言葉にたじろぐ
ホームレスの年寄りを
足蹴にする少年たちがいる
棒で打ち据える者もいる
目障りだという理由
汚いという理由
(ほんとうに汚いのか)
思考を停止した少年たちに
何が見えているのか 大人たちもまた
老人医療が槍玉にあげられる
つまり厄介もの
疫病神という神様になる
神様は見えないから
目障りにはなるまい
爺ちゃん臭いよ
孫の嗅覚は容赦がない
年寄りが臭いのは
日本の歴史を
生きてきた匂いなのだ
この匂いを継いでいけ
この際きれいさっぱり
匂いもろとも脱ぎ捨てるか
否 そうはいくまい
年寄りは己を知りつくしている
年月の壁を手探りした記億
その重みを噛みしめている
年寄りはほんとに醜いのか
ほんとうは美しいのではないか
輝いているのではないか
特集詩《老い》の中の一篇です。拝読しながら、50を過ぎて私もこの感覚がようやく判るようになったな、という思いをしています。現実にはいませんけど、孫がいてもおかしくない年代ですからね。「爺ちゃん臭いよ」と言われそうな気がします。でもやっぱり、「年寄りが臭いのは/日本の歴史を/生きてきた匂いなのだ」と言い返してやりたいですね。そして「ほんとうは美しいのではないか/輝いているのではないか」と思いたい。でも本音は、身だしなみには多少の気を使って、「疫病神という神様にな」って「この匂いを継いでいけ」と言ってやりたいものです。
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2003.3.1 |
栃木県宇都宮市 |
橋の会・野澤俊雄氏 発行 |
700円 |
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爛漫の桜 相馬梅子
なんて見事な桜
庭いちめん 桜 桜
満開の桜
日は燦然と光り
わが家の境の生け垣に
桜の花びらは大きく真中に黄色い蕊
こんなにはっきり桜の花を見るなんて
隣は空き家
と 思ったところで目が覚めた
真冬の深々と寒い夜ふけ
春爛漫の夢を見るなんて
隣家は住む人も絶えて一年余
雑草はのび放題
庭の荒れようは魑魅魍魎
かつては赤や黄の薔薇の花束
生け垣ごしに手渡してくれた
ドイツに留学もしたピアニストの妻
その夫は「陸奥宗光や遠い崖アーネスト・サ
トウ日記抄」を朝日新聞に書いた萩原延壽(のぶとし)
二人は約束ごとのように同じ年に死んだ
植物たちは
人の話し声 笑い声
じっと聞いていた
樹々は緑の葉を繁らせ
花は季節季節に咲き香り
廢屋になると
植物たちもリズムが狂うのか
草ぼうぼうの荒れ庭
夢で見た爛漫の桜
それは二人の天国か
「隣家は住む人も絶えて一年余」「廢屋になると/植物たちもリズムが狂うのか/草ぼうぼうの荒れ庭」などのフレーズだけを切り出すと、侘しさだけが残る作品になってしまいますが、作者の意図は違うと思います。「二人は約束ごとのように同じ年に死んだ」「植物たちは/人の話し声 笑い声/じっと聞いていた」「夢で見た爛漫の桜/それは二人の天国か」というフレーズに、ある種の明るさを感じるのです。死なない人間はいない。生きている間に「赤や黄の薔薇の花束/生け垣ごしに手渡し」、「ドイツに留学もし」、「朝日新聞に書い」て、精一杯のことをして、あとは「約束ごとのように同じ年に死」ぬ。それはそれで幸せなことなのではないか。そこを作者は言ってるように思います。少なくとも私はそう読み取りました。だから「爛漫の桜」も活きている、そう思った作品です。
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