きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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「クモガクレ」 |
Calumia
godeffroyi |
カワアナゴ科 |
2003.3.27(木)
日本ペンクラブの電子メディア委員会が予定されていましたが、出席できませんでした。少し余裕で出てきたとは云え、やはり一度会社に行ってしまうと抜け出すのは難しいですね。かと言って朝から休暇をとるには会議が詰まりすぎていて、ちょっと無責任になってしまいます。職業を持ちながらの文学活動の限界を感じていますが、いずれも捨てられません。先輩諸氏も同じ悩みを抱えながら活動してきたのでしょうから、私もそこから抜け出すわけにはいきません。何とか折合いをつけながらやっていくしかないと思っています。
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2003.3.20 |
東京都千代田区 |
砂子屋書房刊 |
1200円+税 |
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はんらん
世界があるのはいい
あなたがいるのはいい
とってもいい
わたしはいる
うたがいはない
いい
が
なぜわたしは飯田某なのか
あなたではなかったのか
父と母がセックスして
とってもいい
某精子がたどりつかなかったなら
わるかったのか
父がシベリアからもどらなかったならば
蚊になったのか
某精子になったのか
どうでもいいのか
サルトルは木のねっこにゲロをはき
飯田某は上にゲロする
わたしにかかる
いい
こうして形而上学をしんじている
もともと手前にわたしがあるような
わたしが生成されたのが
腑におちない
のだ
いい
のか
わるいのか
体のどこにおちる
世界があるのは
死があるのは
縮むほどこわがっても
ことり
腑におちる
いい
わたしには
なぞはない
だが
あの人が父だった
あの人が母だった
わたしがわたしである
のがまったくの偶然で
永遠にはなれていく
のがわからない
著者の第一詩集だそうです。かなり強烈な詩集で、どれを紹介してもHPをご覧の皆さんに納得してもらえると思うのですが、10頁を越えるような大作が多くて紹介しきれません。ここでは比較的短い作品を掲載してみました。短いけれどこの詩人の持ち味は充分に出ていると思います。一言で言うのは難しいのですが、あえて言えば存在への懐疑とでも言えましょうか。己や対象という存在をとことん突き詰めているという印象を受ける詩集です。新しいタイプの詩人のようにも受けとめました。今後の活躍が楽しみです。
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2003.2.23 |
栃木県宇都宮市 |
橋の会 発行 |
非売品 |
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水
陽だまりの水は
何も見ずに
ただ 天に向かう
すこしずつ
たえまなく
そして
何もなかったように
水は 消える
うっとりと みとれていた
何もなかったように
何ひとつ 損なわずに
消える 姿を
時劫に
身を委ねるだけの
今
本著はタイトルにもあります通り、葉書に書かれた詩画を集めた形になっています。肉筆の文字と添えられた絵が美しい本です。あとがきでは「スペースに制約があります事が魅力でした。詩を凝縮するための真剣な配慮が不可欠ですので…」とあります。
紹介した作品は、原本ではもちろん肉筆ですがここでは入力して活字体にしています。「何もなかったように/何ひとつ 損なわずに/消える」水は、我々の存在の究極の姿を示しているように思えてなりません。「時劫」の劫≠ヘ仏教用語で極めて長い時間のこと、時劫≠ヘ永遠に続く時間という意味になります。著者の思想の一端を垣間見ることができる、効果的な言葉だと思います。
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2003.3.25 |
横浜市港南区 |
「象」詩人クラブ・篠原あや氏 発行 |
500円 |
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みかんとゴルフボールが大事な訳 三上
透
「みかんの木は
陽当たりの良い南側に植えるのが
いい 甘くなるようにな」
庭で泥んこ遊びをしながら
父が植えたみかんの木は
毎年白い花を咲かせて
甘いみかんが沢山実った
芝生に丸く穴を繰り抜き
学校から帰ると
僕は
パターの練習を毎日した
みかんの木の脇から
サンドウェッジで
ゴルフボールを打ち出し
芝生の真ん中に落とす
そこからスライスライン気味に
パターで軽く打ち出すのが
カップインのコツだ
父は
今年は
公園墓地の芝生で
甘いみかんを食べている
いいよね
それって
今日は
ポケットに
真新しいゴルフボールを
持って来たよ
同時に掲載されている、作者の随筆「詩のフィールドワーク(20)」によると、父上は昨年亡くなっているようです。そこから、この作品は鎮魂歌として読むべきだと思いました。第5連からも推測することができます。ですから「みかんとゴルフボールが大事な訳」というタイトルも納得できると思うのです。表現は優しく、むしろ甘いぐらいですが、その裏に秘められた作者の思いを考えると、実は胸の熱くなる作品だと言えるでしょう。
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2003.2.28 |
東京都町田市 |
紙碑之会・木村 和氏 発行 |
500円 |
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天の雫 四竃経夫
いま 私は障害者の施設『やまゆり園』を出て 気づいた
親が遺した財産に群がる人の話は健常者のこと
賢治の弟清六さんが私に言った言葉が はっきりと耳に残る
「障害を与えられた人はみな天から降りてきたひとたちなんですよ」
そうだ
ああ ここには 心のよごれた人が ひとりもいない
かれらの顔が かなしく歪むときでさえも
その瞳は みんな
いちように澄んでいる
この
秋の空を映しているように
「障害を与えられた人はみな天から降りてきたひとたちなんですよ」という言葉はどこかで聞いていたのですが、もとは宮澤清六さんだったのですね。これは含蓄のある言葉だと思います。経験はそう多くないのですが、確かに障害者と接すると「心のよごれた人が ひとりもいない」ことを実感します。その理由も「親が遺した財産に群がる人の話は健常者のこと」というフレーズで納得できます。短詩ながら教えられることの多い作品だと思いました。
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