きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

  kumogakure  
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科

2003.4.2()

 会議の資料作りで追われていました。どこの会社でもそうでしょうが、業務には日報・週報・月報がつきもので、私の場合は日報は無いものの週報・月報はちゃんとあります。そのうち週報はまあ大したことはないんですが、月報は大変です。関係部署の主だったメンバーが集って、2時間もの会議がもたれます。これはなかなか疎かにできません。場合によっては徹夜してでも休日出勤をしてでも纏めないと顰蹙ものです。

 でもまあ、私も異動して8ヵ月近くなりましたからね、コツを覚えてきました。毎日コツコツ(あれ?シャレかな^_^;)やっていれば無理なく資料はできるものなんですね。で、帰宅時間もそう遅くならずに無事終了。帰ってゆっくりといただいた本を読むことができました。



  山根研一氏詩集『折々の真珠』
  oriori no shinjyu    
 
 
 
 
2003.3.20
真珠新聞社発行
2200円
 
 

    朝焼けの日に

   ご来光を仰ぐ
   たおやかな海がある
   この美しい壮厳さ
   想像もできないこの海の拡がり
   碧い深さと冷たさ
   時に荒れ狂う海から
   生命は創出された
   そして真珠も

   人知れず海底に眠り
   いつかその日を待つ真珠
   古代から人はその美しさにひかれ
   男は愛する人への求愛のしるしとして
   水底にもぐり
   時に命を喪い
   また、栄華を与える莫大な富をもたらした

   ざんぶざんぶとうち寄せる波
   何故か 日輪に染まる朝焼けは
   無限の真珠の色に似ている

   希望の新年
   わたしたちは出発にあたり
   ふと考える
   ロマンを忘れてはいないか
   海に立ち向かう勇気
   神秘を得ようとする
   情熱を見失ってはいないか

 珍しい詩集で、おそらく世界でも唯一の真珠をテーマにした詩集ではないかと思います。著者は真珠専門店のオーナーですから、詩と真珠を結びつけた詩集を出版できるのは、当然と云えば当然なのかもしれませんが、自分の職業を振り返ってみたとき、そう簡単に出来るものではないと思い至ります。

 紹介した作品は真珠業界の専門誌の新年号にでも遣われたのではないかと想像していますが、新年を迎えた同業者への言葉としても、現代詩という文学として読んでも見事なものだと思います。真珠も、人も海から「生命は創出された」。そこに総ての価値の原点を見ている詩集だと思いました。



  月刊詩誌『現代詩図鑑』4号
  gendaishi zukan 4    
 
 
 
 
2003.4.1
東京都大田区
ダニエル社 発行
300円
 

    十六夜    宮原 結(みやはら ゆい)

   草をむしっている間に
   親族会謙が開かれ
   私の猫が
   里子に出されることに決まっていた

   確かに
   性悪な猫ではあるが
   飼い主に似るというのだから仕方あるまい
   と口には出さず思っていると
   「あなたがそんなだから
   おひい様が縮んでしまうのです」
   ときっぱり叱られた

   口にださぬものほど
   伝わってしまうものである

   夜半
   私と猫は家を出た

   むしり投げておいた草たちが
   また私を生んでしまわぬかと
   怖れている

 おもしろい作品なんですが、論理的に解釈してみようと思ってもできません。ま、詩を論理的に解釈しようとする方がおかしいんですけどね。でも、そうは云っても何かの喩なんだから、それは何なんだろうと考えざるを得ません。キーワードは「口にださぬものほど/伝わってしまうものである」というフレーズか? 「むしり投げておいた草たち」か? 私のこり固まった頭ではどうにも説明のしようがない作品なんですが、でも、おもしろい。HPをご覧の皆様がどんな感想をお持ちになるか、それも興味のあるところです。



  小川聖子氏詩集くぐり戸の奥から
  kugurido no okukara    
 
 
 
 
2003.3.1
東京都新宿区
土曜美術社出版販売刊
2500円
 

    父の部屋

   父の部屋はいつ訪れても小綺麗に片付いている
   没後八年経った今も最愛の自慢の息子を忘れ得ず
   床の間の片隅に在りし日の写真を
   磨き上げた額に入れて飾っている

   今日、大学卒業をひかえた娘を連れて
   父の部屋に入った時
   額の中の兄と目が合った
   あまりに若々しいのでどきっとした

   彼は四十三歳、私は五十歳。
   あのどうしても追いつけなかった兄の
   七歳年上の妹!

 京都に生れ育った著者は久しぶりで帰った実家の「父の部屋」で「兄」と対面します。二人兄妹であるその兄とは「けんかして血気盛んなわたしは深く考えずに台所の包丁を持ち出した」
(「捨次郎物語」)こともあります。それは兄を越えようとしての行為だったのかもしれません。しかし今は「あのどうしても追いつけなかった兄の/七歳年上の妹」になっているという現実に驚く、という作品ですが、「父」「自慢の息子」「大学卒業をひかえた娘」という家族にも注目する必要があるでしょう。この詩集は著者の自伝であると同時に、京都という古都に代々住んできた親族の歴史でもあるのです。

 それが端的に表現されている作品は、父方の祖父を描いた「捨次郎物語」だと思います。
15頁に及ぶこの長詩は、散文詩として書かれているために詩と散文の危うい位置で書かれているという指摘もできましょう。しかし、その根底の精神はやはり詩だと思います。詩人の眼を通した親族の姿、自分の今の有り様、と採る方が正解と言えましょう。あまりの長詩なのでここでは紹介しませんでしたが、小川詩を読み解く、小川聖子という詩人を知る上では重要な一篇です。充実した内容の一冊です。



  詩誌『黒豹』102号
  kurohyo 102    
 
2003.3.28
千葉県館山市
黒豹社・諫川正臣氏 発行
非売品
 

    黒蟻    諌川正臣

    

   『國體の本義』ありますか
   若々しい女性の声に おもわずふり向く
   戦中ものを主に扱っている古書店でのこと
   知的なまなざし 学生らしい
   国会図書館にもなかったので と店主に

   聞けば海外に在住とか
   卒論のために探しているという
   どうしても無ければお貸ししますよと別れた

   手持ちの一冊は戦没した先輩の遺品
   そこここに書き込みがいっぱい
   キェルケゴールの研究をめざした先輩は
   どんな思いで本書の講義を受けたのだろう
   昭和十八年 学徒出陣
   「生等もとより生還を期せず」
   はたして 悠久の大義に殉ずる をよりどころに
   戦いの場にのぞんだのだろうか

   ひさびさに手にして表紙をめくれば
   扉に ひからびた黒蟻がいっぴき
   いつの日 まよいこんだのか
   『國體の本義』に潰され 張りついている
   先輩も 蟻のように
   地を這いずりまわって果てたのだろうか
   制空権なき空の下

   いまでは死語ともいえる題名の書に
   どんな光をあてようというのか
   卒論の中身が気にかかる

                 ※昭和十二年 文部省発行
                  皇国史観に基づき天皇の統治を神勅として正当化
                  天皇に忠誠をつくすことを国民の本分と説く国体明徴
                  の国定教科書 戦時下の学徒に課せられた

 『國體の本義』に潰された「黒蟻」と「先輩」を重ねた見事な作品です。それを女子学生が「卒論のために探しているという」ことで見事に現代に甦らせました。国内の大学ではおそらくそんな「卒論」は無いのでしょうが、「海外に在住」ということで、それも無理なく理解できそうです。詩作品ですから、作中の事物を総て事実ととらえるのは間違いですが、それでも何の違和感もなく事実≠ニして受けとめてしまいそうです。筆力の成せる技だと思いました。




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