きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

  kumogakure  
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科

2003.4.21()

 どこの会社でもやっていることだと思いますが、小集団活動というものがあります。現場で働く人たちが3〜10人程度集って、ひとつの業務目標を掲げて3〜6ヵ月程度で達成させようというものです。私の職場でも盛んで、今期は8件ほどが登録されています。そのうちの1件が400名ほどの上部組織で発表することになりました。私も推薦した活動です。

 発表が4月23日と決まっていますから、先週末からその予行演習が行われています。今日もその日で、私も立会いました。先週よりはグンと判りやすく、説得力のある内容になっていましたね。多少のアドバイスをして終りましたけど、賞を取ることは間違いないでしょう。同じ職場の人たちが顕彰されるだろうと思うとうれしくなりますね。



  鈴木有美子氏詩集『水の地図』
  mizu no chizu    
 
 
 
 
2003.4.5
東京都新宿区
思潮社刊
2200円+税
 

    溢水期

   いつもわたしを受け入れてくれる水面が
   何故か 今夜はつよく
   わたしの指を拒んでやまない

   また
   溢水が始まってしまった

   ゼリー状に凝固した水は
   川ではなく はるかに遡ってくる海である
   性交のあとやってくる満潮のように
   逆流を始めて
   水の面も震えている
   わたしは その水の間をじりじりと進み
   またじりじりと退く
   地中深くに生まれてしまったその水も
   水面の高さを持て余しながら
   じりじりとひろがっては
   まだじりじりと収斂し
   やがて
   濃い液体となってわたしの内側を蛇行し始めるから
   静かに目を閉じて
   洪水が通り過ぎてゆくのを待つしかない

   「喘ぎあえぎ
    やっとここまで辿ってきたというのに
    この有様は一体なんだ?
    川の流れをほどいても
    ほどききれないことぐらい
    とうに気が付いていたんだろう?」

   音楽を持てるひとは良い
   わたしは横顔だけで拒絶するが
   地下茎のように流れる水は
   強くわたしの視線を揺さぶって
   (嘲笑のように わたし 静かに 解体されていきます
   皮一枚ずつ振り返れば
   汽水域のような匂いだけが辺り一面たちこめて
   もう
   いや また
   静かに溢水が始まってしまったのだ
   水面がどんなに強くわたしの指を拒んでも
   (先づ当村の儀は明神杜まで川となり)
*
   洪水がやってきては次々に人々を殺してゆく
   (刻々水嵩増し逃れ残りの者入水に及び家々は流るるものあり)
   どこまでも押し寄せては
   (一度に高砂を押寄せ)
   またどこまでも受け入れようとして
   (川になること凡そその広さ百間斗)
   深い地中からわたしの水を溢れさせる
   (男女共に不残入水可有之候)
   欲望と想念とをかき分けながら
   (水嵩は所により三尺、五尺、八九尺)
   流れても
   (馬十三疋流死申候)
   流されても
   (人家は水嵩三尺四尺或は七八尺に及び)
   まだ流れやまないのか
   (中屋敷七軒流れ)
   こころさえ無残に殺してしまえるような
   (大橋は落ち六人入水)
   こころなどついぞ見つけられないような
   (茂宮にては二人入水)
**
   洪水、この性的な物語よ

     舟戸の儀は饅頭屋と共に押流され、米崎叶山の中程迄水つき、額田大池土手
    切れ、久慈川筋水際土手数十ケ所切れ惣じて坂下の儀は紙上に尽し難く候

     *から**の( )内、及び末尾の引用部分はすべて『珂北利水沿革史』篠原卯之吉、
      吉原赳編 珂北利水沿革史刊行会発行)

 己の「溢水期」と『珂北利水沿革史』を見事に結びつけた作品だと思います。詩はとうとうと流れ、いつの間にやら久慈川洪水が織り込まれ、読者は作品人物の心象と記録された歴史を同時に垣間見ることになります。その展開は見事としか言いようがありません。最終行の「洪水、この性的な物語よ」というフレーズですべてを納得するのではないでしょうか。

 「水の地図」と名づけられた本書は、その名の通り川に関る作品が多く、それに反映された作者の心象には特異な美意識があるように思いました。それをHPをご覧の皆様に知ってもらうには詩編の断片では無理ですので、ちょっと長い作品ですが全編を引用させてもらいました。なお「溢」は本字で表現されていましたが、パソコンの制約上略字で表記したことをお断りしておきます。



  月刊詩誌『柵』197号
  saku 197    
 
 
 
 
2003.4.20
大阪府豊能郡能勢町
詩画工房・志賀英夫氏 発行
600円
 

    五月    若狭雅裕
     ─母の日や塩壷に「しほ」と亡母の字=i川本けいし)

   カユを炊いて田の神に供え
   豊作を祈った八十八夜が過ぎて

   野にも山にも若葉が茂る≠ニ
   懐かしい歌声が聞こえた

   日本晴れの空には泳ぐ鯉の姿はなく
   飛行機が二機でアべック飛行

   新聞の後方支援≠フ活字が
   キナ臭イ%いを思い出させる

   乳を欲しがる赤ん坊の泣き声に
   人前も何のその胸をひろげた母

   乳房を意昧する二つの点を書かず
   haha≠ニ書いたら叱られたっけ

   昔 メソジスト教会の幼稚園で
   赤いカーネーションを貫ったが――

   今は白いカーネーションを買って
   亡き母の墓前に供えている

 「川本けいし」の句が奏効している作品だと思います。歌や句を冒頭に持ってきて詩作することはよくありますが、なかなか巧くいかないものです。引用する歌や句は優れているから持ってくるわけで、それに対抗できるだけの詩を置くことは並大抵のことではないと思っています。紹介した作品の場合は、それが巧くいっていると言えましょう。

 その理由は「新聞の後方支援≠フ活字が/キナ臭イ%いを思い出させる」という政治的に強い場面があること、「haha≠ニ書いたら叱られたっけ」という面白いエピソードが挿入されているためだと思います。そのくらいのことを書かないと対抗できないといういい事例だと考えています。なお「haha」は画像で貼りつけているため、ちょっと見苦しくなってしまいました。ご容赦ください。



  隔月刊詩誌『鰐組』197号
  wanigumi 197    
 
 
 
 
2003.4.10
茨城県龍ケ崎市
ワニ・プロダクション 仲山 清氏 発行
400円+税
 

    生菌の朝   福原恒雄

   どこの庭の鳥なの。
   食欲に遊んでいるあいだに舗装されたこの小路の、のっ
   ペりとしたアスファルトに、食い散らした実の汁っぽい
   残滓が鈍く鈍く拒まれて浮く。
   歩行がいがらっぽく避ける傾斜の角度に、人生はこれだ
   けのことに怯えるのか、と詠嘆調で息吐けるのは、けさ
   は実働を五分早めた功徳か、日差しだって負けん気の
   生々しさ。

   風景のいろに擦られる立ったままの満員電車。
   眺めるだけなら色の剥げそうな棒グラフの一区劃、と
   言ったらひどく怒った友人も、その住まいから戸締まり
   火の用心を鞄に詰めて実働を開始したか。小路の鳥の糞
   も一瞥の模様にたぐって、すぐに放って、詠嘆調をはら
   いながら電車に身を任せたか。日差しを斜にかわしなが
   ら怠惰は敵だという朝礼訓をにやり思いだしたか。

   もっと親しく寝癖の髪を気にしていた時計のために。
   トーストのひとかじりで、固い箱をとび出した靴のヒー
   ルは階段をやけに気にする、怒りを鎮めている柔和な足
   がかなしい筋肉になる、と聞かされ、あさ早い鳥の足は
   どうだとあてずっぽうをぶっつけてしまった昨日。
   友の渋面はまだホームの最前列か、まだポケットは定期
   券のために探られているか、それとも、……いない?

   どこにもいそうなわれら生菌のために。
   どこの庭も電車も寝癖も、ひと任せにしましょ、外観な
   んだから。ひそかな自問自答が鎮座する椅子にあって見
   られているのはともに軌む歳なんだから、なんて嘯いて
   いる人品はどこも侵さない。乾いてもしつこい鳥の糞だ
   満員電車だ、そしてかなしい筋肉だ。指差し無しで目だ
   けでかき分けるふるい空にかすむ白い少女色の声。
   みんな、明日は雲になるの!

   思い返したら崩れてしまう歌詞をひき連れ生菌のダンス。
   ときに、生欠伸。殺戮さえ偽装する舌にまるめこまれて
   薄く柔らかい日めくりをゆび砥めてめくり、おお、皮膚
   まで蒼白の高笑い。きんきんと噴いて。

 このHPでは初めての紹介ですが、知る人ぞ知る詩誌、知る人ぞ知る詩人です。
 本当にこの人の作品はいつ読んでもおもしろい。実は作者とは
30年来の付き合いです。私がまだ20代の頃からの先輩で、この人の作品に近付くことがひとつの目標でした。途中で挫折して別の方向に走ってみましたけど、今は束縛も取れたので真剣に福原恒雄研究をやってみようかと思っています。付き合い始めた最初の頃、福原恒雄論として小文を書いたことがありますが、それを思い出しながら紹介した作品を何度も読み返してみました。

 ちょっと言葉の組み合せが特異で、慣れないと読みこなせないかもしれませんが、最初は細かいところに気を遣わずに大雑把にくみ取るのがコツです。だいたいの雰囲気が判ったら、今度は細部まで注意して読む。例えば「実働」は二度出てきますが、それは通常の労働≠ニ考えて読むと読みやすくなると思います。もちろん「寝癖」はそのままの光景として読む。
 そしてタイトルと大雑把につかんだ感じとを組み合せてもう一度読むと良いでしょう。そのあたりで「生菌」は私たちのことであり、あるいは水虫なのかもしれませんね、ということが判ってきます。できればもう一歩突っ込んで、この日常を描写した比喩は何なんだろうと考えてもらえれば、作者としても紹介者の私としてもうれしいですね。作者の表現の背後には私たちへの批判があるのですゾ。それも個人に対するものでなく、政治・社会現象を含めた、この時代を生きている人間への厳しい観察です。

 紹介した詩誌も詩人も大変な力を持っているのに、いわゆる詩壇に顔を売るというようなことは一切やっていません。それは詩とは無関係だからです。本来の詩のあり方を忠実に守っていると言えるでしょう。私も決して詩壇に顔を売ろうと思って詩人クラブの理事をやったり、ペンクラブの委員を務めたりしているわけではないのですが、彼らを見ていると忸怩たるものがあります。詩らしきものを書いている一員として、もう一度初心に帰りたいものです。




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