きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

  kumogakure  
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科

2003.4.23()

 小集団活動の発表の日。全部見ると3時間かかりますので、自分の職場の事例発表だけを見ました。発表者はまだ20代(だったかな?)の若い男で、初めての体験です。100名ぐらいの観衆を前に決められた時間でちゃんと終るのか、審査員の質問にちゃんと答えられるのか心配でしたが、どうしてどうして、なかなか堂々とやっていましたね。もともとは全日本リーグに出るようなバレーボールの選手でしたから、マスコミ慣れしていたからかもしれません^_^;

 今回の発表事例は賞も取れたし、本人の自信になっただろうと思います。そうやって後進が育っていくのを見るのはうれしいものです。



  酒井厚氏詩集『陽だまり』
  hidamari    
 
 
 
 
2003春
栃木県宇都宮市
橋の会刊
1500円
 

    死の命

   今朝も蜘蛛の死骸を茶の間で
   掃除機に吸い取る
   かすかな痛みを響かせて

   ぼろ雑巾のようになった猫の死体
   酷さがアスファルトに
   貼りついている

   死は やおら咲く季節の花
   生々しいのに
   直にドライフラワー化される

   親友の夫が亡くなった
   二十五年ぶりの再会
   仏前の見知らぬ初老の紳土

   時が刻んだ顔の奥から
   澄んだ目と童顔の画差し
   掬い上げて見つめる
   その瞬間
   絶え間なくフラッシュが焚かれ
   懐かしさの中に彼は蘇ってきた

   嘆きの中にいる友よ
   黒いリボンに封印された
   鮮やかな彼の生は
   完
   を誇らしく宣言し
   投函を命じている

   回転椅子を回せば鎮座している死
   「ひとの心の水溜りに映っている限りの命よ」
   生を分かち合った人々の中でのみ輝き

   空のポストに運ばれて
   やがて蜘蛛や猫のように
   あっけなく消える日がくる

 第一詩集だそうです。ご出版、おめでとうございます。新しい詩人の登場に拍手を惜しみません。

 紹介した作品は「死」にも「命」があるとする見事な詩だと思います。「蜘蛛の死骸」や「ぼろ雑巾のようになった猫の死体」のように「直にドライフラワー化される」というのは独特な視点だと言えますが、冷静に考えればそうなのかもしれません。その思想は「親友の夫が亡くなった」ことで展開されていき、最終的には「あっけなく消える日がくる」と結ばれています。しかもそれは「完/を誇らしく宣言」するものだというわけですから、そこにはジメッとした諦観は感じません。むしろさわやかさを感じると言ったら読み過ぎでしょうか。「母のエール」という作品でも同じような思いをしましたので、読み過ぎではないと思うのですが…。達観した人生観を感じさせてくれた詩集です。



  文芸誌『らぴす』18号
  lapis 18    
 
 
 
 
2003.4.10
岡山県岡山市
アルル書店 発行
700円
 

 巻頭の林小冬氏による「応接間の波多野勤子」というエッセイは、懐かしいものでした。ご存知の方も多いかもしれませんが波多野勤子という人は心理学者の波多野完治氏の奥様です。私が高校生のときに読んだ『心理学入門』という新書はお二人の共著だったと記憶しています。多感な時期に読んだ本ですから、今だにその影響を受けているような気がします。現在ではデジャビュ≠ニいう言い方が一般的なようですが、40年近く前にその本から既知感≠ニいう言葉を覚えて、感動した思いが甦りました。

 エッセイは1952年の思い出として、小学校入学前の作者の家の応接間に波多野勤子がいたことが描かれています。児童心理学調査の目的で来訪されたようですが、質問にきちんと応えられなかったことが今となっても忘れられないと続いています。そのときの作者の心境、勤子女史の態度も印象深く書かれていますが、私にとっては当時の生活状況、人間の態度がある種の懐かしさで迫ってきました。勤子氏の著書『少年期』(中学生の息子との往復書簡)に波多野家の様子が描かれているそうですが、それを作者は「『聖家族』のイメージ」と紹介しています。その「聖家族」という言葉に反応してしまったのです。現在では聞かれなくなっていますが、そう呼ばれた時代があったな、そういう家庭を目標にしていた人たちがいたな、と急に懐かしくなりました。

 1952年というと私は3歳でした。昭和30年代を懐かしむ声が最近聞かれますが、それは理解できます。まだ家族が協力しなければ生きていけなかった時代です。この作品を通して、改めてそんな時代だったことを思い出してしまいました。



  詩誌『環』108号
  wa_108    
 
 
 
 
2003.4.25
名古屋市守山区
「環」の会・若山紀子氏 発行
500円
 

    サブリミナル    神谷鮎美

   大学病院の一階にあるお手洗いにいた女の子。「お母さんがいないの」と言う。
   まだ小さな子供だ。迷子か。

   おしろのみえる びょういんに わたしがねむる。もうすぐ よっつの わた
   しがねむる。おとうさんも ねむる。あの へやに。くらいろうかに ひかり
   がもれる しろいへや。

   「お母さんとはぐれちゃったの」と子供は言う。辺りを見回す。大人は誰もい
   ない。

   かえりに こうえんへいく やくそく。おしろの こうえん。おとうさんに
   あったあと あそびにいく いつもの こうえん。がいじんさんが いっぱい
   きていて わたしは そこが すきだから。

   待合室のソファーに子供を坐らせる。白衣を着た医師達が通り過ぎる横で、子
   供は天井を見つめながら怯えて坐る。MRが黒いカバンを提げて歩く。ナース
   がカルテを抱えて早足で過ぎる。やがて遠くから救急車のサイレンの音が波と
   なって耳へと伝わる。

   ひとりずつ しんでいった ひとびとは。さよならも いわず きえていく。
   あたりまえのように おとずれる し。きのう げんきだったひとも きょう
   いなくなる。あさって たいいんするはずの ひとも きょう いなくなる。
   そうして べっどは からになり また あたらしいひとが はいってくる。
   しは くうきのように わたしのまわりに まとわりついて はなれない。

   廊下の先は窓になっていて光がゆらゆら揺れている。ときどきちらつく病室の
   場面。父の病室に入ろうとして、私はそこから半年間の記憶をなくしたのだ。

   わたしが ねむる。びょういんで。しぬまで わたしは ここにいる。

   子供の私が見たものは思い出せない。死ぬまで閉じこめられている私と記憶。

 「サブリミナル」は直訳すれば潜在意識の≠ニいうことになります。まさに「私」の潜在意識を描いた作品と申せましょう。「女の子」の語りと「私」の観察が見事に重なり合った作品だと思います。特に「しぬまで わたしは ここにいる」と「死ぬまで閉じこめられている私と記憶」が重層効果を出していると思います。時間を超越した、あるいは時間が止まったとも言えましょうか、印象深い作品だと思いました。



  個人詩誌『色相環』16号
  shikisokan 16    
 
2003春
神奈川県小田原市
斎藤 央氏 発行
非売品
 

    電車の中で

   僕の席の斜向かいには
   長身の女が座っていて
   いきなり足を組んだものだから
   スカートの奥の太股が見えてしまった
   見てはいけないものを
   見てしまったような罪悪感に捕われながら
   エアコンの風が
   スカートの裾を揺らすので
   僕の目線は
   どうしてもそこに釘付けになる
   おまけに女ときたら
   胸に
see saw と書かれた
   黒いTシャツを着ているものだから
   見える? 見えた?
   などと勝手に解釈してはいけないか

   僕の隣には
   新婚五ケ月の嫁さんがいて
   二十も年が若いのだが
   時折 僕の様子を伺っている
   なにしろ 嫉妬深いフィリピーナだ
   斜向かいの女の太股を
   見ていることに気がついたら
   平手打ちか 空手チョップか
   場外乱闘さえ覚悟しなければならない

   浮気心なんかじゃないよ
   愛しているのは君だけだ
   僕たちよりも先に女は降りて
   もう 何の言い訳も必要ないのに
   心がキュンと痛くなるのは
   一体どういうわけだろう

 これは判りますね。「
see saw」を「見える? 見えた?/などと勝手に解釈」するのもおもしろい。もちろん「see saw」はシーソー≠フことですけど、この解釈は愉快です。
 最後の「心がキュンと痛くなるのは/一体どういうわけだろう」も見事。詩としてきちんと収まって、ここで品格を保っていると思います。ただし「心がキュンと痛くなる」原因の解釈には二通りあると思います。「愛しているのは君だけだ」と思うからか、「僕たちよりも先に女は降り」たからか。この場合は前者でしょうが、後者の解釈も粋なものだと思うのです。




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