きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

  kumogakure  
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科

2003.4.26()

 同年代の気の合った仲間が集って、気楽な朗読会をやろうじゃないか、ということになって、その第1回目の打合せを持ちました。打合せとは言っても、そこは気楽な≠ニいう定冠詞がつく連中ですから、簡単にホイホイと決まってしまいました。幹事は誰それ、場所は渋谷、日時は7月某日、会費はいくらという具合に決まって、何をそんなに慌てているのかと思ったら、みんな早く呑みたいんですね^_^;

 もちろん私も呑むことは大好きですから、積極的に協力して議事≠終らせました。詳細はもう少し詰めますけど、問題は案内状発送先です。大勢さんに来てもらう気はなくて、20名ほどの小さな会にしようと思っています。ですからこのHPをご覧の皆さまのほとんどには発送できないことになりそうです。朗読もやりたい人だけ、あとはひたすら聞いて呑みましょうというスタイルです。はっきり言ってしまえば練習会に近いですね。だから朗読の時間より呑む時間の方が圧倒的に長い^_^;

 どうなることやら…。でも、そうやっていつでも声を掛けてくれる仲間が近くにいるというのはうれしいことです。会社を辞めたあとも生涯つき合う連中ですから、大事にしたいと思っています。



  中田紀子氏詩集『眠る馬』
  nemuru uma    
 
 
 
 
2001.8.30
東京都中野区
潮流出版社刊
2000円+税
 

    

   白いうぶ毛と 天然の桃色を
   夏の陽ざしにかざしてみる

   兄と並んでほうばった桃
   縁側に立ったまま
   歯をたてて
   可笑しな話に熱中しながら
   またたくまに小さくなっていった桃
   読書している父の背
   外出から帰った母の声
   夏野菜をきざむ音
   たちこめる酢のものの香り
   霧がかかったように
   くもり始めるガラスの器
   つたわる水満のむこうに
   父の目が笑っている
   黒い鉄の扇風機
   うなりながら通りすぎる風

   かみなりを伴った夕立は
   茂った柿の葉の上で
   水しぶきを上げて踊りはね
   げたをぬらし
   地面に大粒の穴をあけ
   あわてて閉めたガラス戸は
   もう ひんやりと冷たい

   「今のは近いね」
   「光ってから間がないもの」
   「やっと涼しくなるね」

   父と母がいない夏が
   今年もめぐって来た
   息子と娘が桃をほうばっている

 著者の第一詩集です。紹介した作品に代表されるように「父と母」「息子と娘」という家族を描いた詩に秀作が多いように思いました。「桃」では桃を仲立ちとした「父と母」、作中主人公と「」、「息子と娘」が繊細に描かれていて、ある種の安心感を与えていると思います。しかし「父と母がいない夏が/今年もめぐって来た」ことがちゃんと書かれていて、作品の底には人間の哀しみを背負っていることが判ります。何気ないことがフッと思い出されて、それを軸にもう一度現実を見る、そんなふうに人生は過ぎていくのかもしれません。そんなことを考えさせられた作品、詩集でした。



  詩誌『流』16号
  ryu_16    
 
 
 
 
2002.4.3
川崎市宮前区
宮前詩の会 発行
非売品
 

    崖下のボート小屋    麻生直子

   〈松前江差のかもめの島は地から生えたか浮島か…〉

   江差迫分の一節にそんな唄があった
   陸から離れていた小島が砂を寄せて入江をつくり
   徒歩で歩けるようになったかもめ島

   崖の山道をのぼると
   シベリアの海に続く水平線があるばかりだ
   崖下にボート小屋があった
   短い夏のあいだ わたしはそこでアルバイトをした

   目の前に頭蓋骨のような
   鯨呼び寄せ伝説の瓶子岩が海中から突起していて
   防波堤に囲まれたカムイ・ブルーの深海

   いくにちも いくにちも その海を目の前にして
   ボート小屋の木荷子に座っていると
   誰かに呼ばれるように さりげなく水に入っていきたくなる

   ボート小屋で一緒に海を眺めていた
   〈お姉さん〉と呼んでいた透明な瞳のひとが入水した
   わたしがその町を離れてまもなくのことだ
                          *運作「江差にて」より

 さり気ない風景の中に「シベリアの海に続く水平線があるばかりだ」と、地域と歴史を表出させた秀作だと思います。「誰かに呼ばれるように さりげなく水に入っていきたくなる」というフレーズも、いかにも北の海らしくて雰囲気がありますね。さらに「〈お姉さん〉と呼んでいた透明な瞳のひとが入水した」という一行は麻生詩世界の面目躍如というところでしょうか。最終行の「わたしがその町を離れてまもなくのことだ」も、私にとってもはるかに遠い故郷を思い出させるようで、フッと静かに人生を考えてみたくなりました。



  詩誌『流』17号
  ryu_17    
 
 
 
 
2002.9.9
川崎市宮前区
宮前詩の会 発行
非売品
 

    最小公倍数    山本聖子

   〈さい しょう こう ばい すう〉
   と 唱えながらやってくる
   土曜の午後の静かな住宅地を
   リュックと 首から下げた財布という
   塾の定番スタイルの少年が
    口に出して覚えながら帰りなさい
   とでも言われたのか
   〈さい しょう こう ばい すう〉
   と 繰り返しながら歩いている
   少年のあこがれと母親の安心とを
   一番小さなリスクで保証する反復なのだろう
   少年の夢と父親の後悔を同時に
   納得させる春への一歩のリズムかもしれない
   〈さい しょう こう ばい すう〉
   リュックの背中には大きなNのマーク
   何かにNOとでも言うように

   少年が曲がっていく角の小さな畑に
   インゲンがそっとつるを伸ばしている
    強制的に左巻きにして育てると
    ストレスがプラス効果を生むって
    収穫が二倍になる というこわい話だ
   〈さい しょう こう ばい すう〉
   見とれているわたしたち夫婦みたいに
   十倍も百倍もかっこ悪い結末を
   思ってもみなかった現実を
   受け入れていく秋もあるのだけれど

   夫婦の間には かすがい役の小犬
   もはや公倍数など望むベくもない せめて
   共有できる少しでもまともな約数はないか
   と 引き綱の微妙な探り合い
   〈さい しょう こう ばい すう〉
   少年の引く長い影のような末知数の未来を
   ふたり同時に 眼鏡をはずして見送った

 「塾の定番スタイルの少年」というのですから小学生でしょうか。「最小公倍数」は中学校で習ったような記憶があります。ですから作者も小学生が!≠ニ驚いたまのでしょう。塾通いの弊害は本当かどうかは微妙なところですが「強制的に左巻きにして育てると」問題だと思いますね。

 それはそれとして「少年」を見送る「夫婦の」姿がいいですね。「十倍も百倍もかっこ悪い結末」があったかもしれませんし、「もはや公倍数など望むベくもない」のかもしれませんけど「ふたり同時に 眼鏡をはずして見送った」のですから、それ以上の呼吸はないと思います。夫婦のあり方も考えさせられた作品でした。



  詩誌『流』18号
  ryu_18    
 
 
 
 
2003.3.3
川崎市宮前区
宮前詩の会 発行
非売品
 

    みつめる    中田紀子

   小さな川だった
   鼠とりに入れられた鼠が
   溺死するのを
   みつめていた
   何度も 何度も水から
   顔を出し 流れに抗い もがき
   あきらめなかった
    わたしの肺は水でふくれていった
    もうすぐ息ができない

   脳髄が少しだけ重く
   ニューロンがほんの少し多く
   脳細胞が僅かに複雑だったヒトが
   まわりの生きものを支配してきた
   生と死をかけた闘いによってではなく

   とうとう牛の耳に
   番号札が下げられることになった
   きょう夕飯のハンバーグの肉が
   どこで生まれ 何を食べて育ち
   どの工場でミンチにされたか
   コンピューターで5秒で解かるために
   耳に穴をあけられる順番を待つ牛たち

   シュトウットウガルドのべルゼンで
   ポーランドのアウシュビッツで
   ミュンへン近郊のダッハウで
   腕に囚人番号を印されるのを待つ人たち
    わたしはいまその列にいる
    立ったまま 眠れない
    心臓の音が死の順番を伝えてくる
    わたしの番号 もうわたしの番号

   鼠が苦しむのを ただ
   みつめていたわたしは
   五十年径ったいまも
   解体された肉を
   そこにたどりつく距離を
   みつめている一
   舌に残るあまさを
   決して忘れられない人びとの
   一人として

   宇宙に限りなくある星に住む
   地球人より少しだけ
   脳細胞が重く僅かに複雑な
   異星人たちが
   いつかこの地球の生きもの総てを
   支配する日がきたら
   裸のまま鎖でつながれ
   病死したヒトの肉を食料に
   耳に囚人番号が下げられる
   その順番を待つ長い列

   宇宙人の一人の少女が
   ただ黙ってその列を
   みつめている

 怖い作品ですね。以前このHPで紹介したことがありますが、可愛い服を着た熊の子供がオヤツよと人間の指を与えられる、どなたかの詩を思い出しました。そうなんです、逆転してもおかしくないんです。原始の地球では、人間なんて他の動物の恰好のエサだったかもしれませんしね。

 「宇宙人の一人の少女」も夢物語とは言い切れないと21世紀の人類なら思うでしょう。私たちが知っていることはあまりにも少ない。その少ない知識で「まわりの生きものを支配してきた」ツケがいずれ来るのかもしれません。そうなる前に生物の共存を考えようではないか、そんなことを訴えた作品だと思います。





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