きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

  kumogakure  
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科

2003.5.1()

 タイミングはちょっと遅いのかもしれませんが、今期の「課題検討会」なるものが午後いっぱいを使って開催されました。まず6人のグループリーダーが自分のグループの目標を説明して、それを受けて社員ひとりひとりが発表するという、まあ、どこの会社でもやっているようなことです。

 たった3人しかいない私のグループでは、来月末に退職が決まっている人がいて、補充が来ないことが判っていますから、2人になってしまいます。そんな状況を説明しました。もちろん参加者全員がそんなことは知っていますし、何かを決議するというような会議でもありませんから、気楽なものなんですけど、他のグループの動向は参考になりますね。大きくは全社の目標、工場の目標があって、その中での各グループの目標ということですから、そう目新しいことはないようなものなんですけど、それでも違いがあります。グループリーダーを筆頭とする個性とでも云いましょうか、そんなものを感じました。そこが人間の集団の面白みなんだろうなとひとり合点していました。



  詩誌『帆翔』29号
  hansyo 29    
 
 
 
 
2003.4.25
東京都小平市
《帆翔の会》岩井昭児氏 発行
非売品
 

    眠れないでいるホテル    荒木忠男

   くすくす笑いが
   となりの空部屋から壁を擽る
   眠りかけた目覚時計が目をあける

   顔のない耳の手が
   ランプシェードから舌をのばす
   かすれた声の足が床から這いあがってくる

   食ベ残しのリンゴの口の
   皿をすこし机の端ヘ移動さす
   手のないナイフを引き寄せて

   エレべーターの首がガタンと止まる
   廊下を鍵束の鳴ってゆく
   どこかで扉の強く閉まる音

   ビルの谷間では満月は青白く痩せ
   カーテンの隙間から生白い指を
   眠れないでいる部屋へ差し込んでいる

 おもしろい作品だと思いました。私も出張でビジネスホテルに泊る機会が多いのですが、こんなホテルに出遭ったことはありません。どういうホテルなんだろうと興味津々で読み進めて、最終連で判りました。「眠れないでいる」のは「ホテル」であり「部屋」なんですけど、作中人物も「眠れないでいる」んでしょうね。

 ん? 作中人物? 自分で作中人物≠ニ書いて、慌てて読み返しています。そう云えば人物≠ネんてどこにも書かれていません。書かれているのは「目」「耳」「手」などのパーツだけです。でもそれらは「ホテル」のパーツでもあるようです。人体と「ホテル」が共有しているパーツと読めそうです。とするとこの作品は? うーん、今夜は「
眠れないでいる」ことになりそうです。



  詩誌『蛙』5号
  kaeru_5    
 
 
 
2003.4.25
東京都中野区
菊田 守氏 発行
200円
 

    地球の春    菊田 守

   我が家の庭で
   ヒヤシンスやクロッカスの花が
   静かに心を開いて
   美しく咲いているのに
   なぜ わたしのこころは悲しいのか

   すみれの花が咲き
   庭に雀やつぐみがやってきて
   キキとして餌をついばんでいるのに
   なぜ わたしのこころは痛むのか

   花の蜜を吸いにやってきた
   一匹のアブが
   なぜ偵察機のように見えてしまうのか
   哀しいこころよ

   平和な
   わが庭に続く地球の地と空
   いまも土の中には地雷が埋まり
   血染めの花の咲くのを待っている
   とりが自由にとんでいた空には
   爆撃機がとび市街地を攻撃している
   むらさきすみれとみたのは
   実は爆撃され炎上する街の情景

  地球の春がかなしいのだ
       (二○○三年三月)

 「平和な/わが庭に続く地球の地と空」の彼方に「爆撃され炎上する街」があるとする、この大きな思考の繋がりに敬服しています。物理的には「地」も「空」も「地球」では一体となっているのですが、それを感じることができるかどうか…。作者はそう感じることができる数少ない詩人の一人だと云えましょう。

 「血染めの花の咲く」という言葉は衝撃でした。血を吸って咲くしかない花々。その発想に驚き、「地球の春」という壮大なタイトルにも惹かれた作品です。



  沼津の文化を語る会会報『沼声』272号
  syosei_272    
 
 
 
 
2003.5.1
静岡県沼津市
望月良夫氏 発行
年間購読料2500円
 

    それが、誰からの、どんな、留守電だっ
   たか思い出せない。電話の向こうは何
   か考え込んでいた。ぽっつん、ぽっつんと
   言葉が途絶える間、私の耳は受話器か
   ら聞こえて来る さわやかな風の 囁き
   を聴いていた。五月だ。いつかロケに行
   った静岡の茶どころのあたり、薪茶を
   摘む頃だ。 新幹線の音がした。 富士
   山が見えるかな。 私の旧姓 「入江」
   は 地図でみると もっと 南の海辺の
   町だ。私は相手の言葉を待つのが少し
   も苦にならなくて、できれば相手がもっ
   ともたもたして、電話がいつまでも切
   れないでほしいと思った。

 「聲論」というコーナーに書かれていた、佐々木史子という方の「五月のメッセージ」というエッセイの書出し部分です。このあと留守電に代ってFaxの時代になって「たしかに便利だが、するすると用件のみを一方的に押し出して来るファックスはやや人間味に欠ける」と続き、携帯電話の中になつかしい留守電機能があった、と書かれています。そして、誰かに沼津の風の音をご自分の携帯に送ってもらおう、と締め括って「五月のメッセージ」というタイトルをきれいにまとめているのですが、作者の伸びやかな感性に惹かれています。

 「ぽっつん、ぽっつんと言葉が途絶える間、私の耳は受話器から聞こえて来る さわやかな風の囁きを聴いていた」という大らかさは読んでいて心温まるものを感じました。電話なんて用件だけを話すもの、と固く信じている私にとって、ああ、そういうふうにも遣えるんだなと改めて思った次第です。「ぽっつん、ぽっつんと言葉が途絶える」人の心理も考えたことがなかったし、電話の向うの「さわやかな風の囁きを聴」くなんて発想もなかったように思います。こんなところにまで人間の大きさの違いが出てしまうものなのかと、ちょっと衝撃を受けたエッセイです。





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