きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

  kumogakure  
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科

2003.5.3()

 日本詩人クラブの現代詩研究会が神楽坂エミールで開催されました。今回で担当理事としての私の役目は終り。正直なところ、うれしいです^_^; 2年間は長かったですからね。無事に担当を全うできてホッとしています。

  030503

 参加者も20名と多かったですよ。6月にも予定されていますが、理事会が改選になりますのでどうなるか判りません。そんな意識がいつものメンバーにもあったのではないかと想像しています。
 拙い担当理事でしたが、ご協力いただいた皆さん、ありがとうございました。



  詩誌『コウホネ』13号
  kouhone_13    
 
 
 
 
2003.4.30
栃木県宇都宮市
<コウホネ>の会・高田太郎氏 発行
500円
 

    黒い蝶    高田太郎

   〈ここが
山下道の入口だ〉
   北部ルソン島 岩石だらけの国道を
   ぼくらはバスにしがみつきながら走ってきた
   いくら唾
(つば)しても
   砂の味は消えなかった

   
十字架型の奇妙な日本戦没者慰霊碑
   急造の祭壇線香立て
   供えられるものはみんな供えて
   色とりどりの山
   ペコちやん箱のそばで
   英霊の写真が和む

   黒い蝶が一羽
   御神酒の壜に止まって動かない
   なぜだ
   〈収骨分を梵に付したときも来ていたよ〉
   ぼくの後ろで声がした
   日本人ならそのふしぎな因果を解くことができるだろう
   だが、戦没者の魂魄とはだれが考え出したのだろう
   落ち征く山下大将に続く草生す屍累々の道
   社の命
(ミコト)
   もういちど
   ぼくの目の前にありのままの姿で戻ってみてはくれぬか

              ※山下奉文大将が立てこもったバギオへ米を運ぶ
               目的でつくられた山岳道路。後に大将と日本軍
               の退却路となった

              ※日本人慰霊碑も山下財宝伝説などで掘り返され
               たり、壊されたりする。十字架型にしておくと
               カトリック信者の多い現地人も手は出さない。

 同じ作者による「サイパン/テニアン島巡拝記」というエッセイによっても、紹介した作品は巡拝の旅をモチーフとして創られたことが判ります。私の父親もトラック島に出征していたようですから、場合によっては父親と共に巡拝する立場だったのかもしれません。

 作品に戻ると「日本人ならそのふしぎな因果を解くことができるだろう」は良く理解できますね。驚いたのは註にある「
山下財宝伝説」です。そう云えば昔、そんなことを聞いた記憶があります。事実かどうかは別にして、悲劇の主人公にはつきものの話なのかもしれません。「黒い蝶」と云い、「山下財宝伝説」と云い、日本人に共通する精神の一面を見た思いがした作品でした。



  詩誌『現代詩図鑑』5号
  gendaishi zukan 5    
 
 
 
 
2003.5.1
東京都大田区
ダニエル社・豊倉 潔氏 発行
300円
 

    春には誰かがいない    真神 博(まがみ ひろし)

   午前九時になったばかりの朝
   桜が開花している
   見渡す限りの 家々の窓ガラスが
   ことごとく割れているところを見ると
   きっと とても激しい開花だったのだろう

   繰り返される春
   春はどこか遠くをぐるりと一周して
   また人の前に姿を現わすと
   今年もまんまと桜に花を咲かせた

   花は咲いて 散ることで
   この世をどこかの世界から切り離す
   それはきっと今年もまた
   誰かがいなくなった証拠なのだ

   私たちは
   春を過ぎ越したから
   もうその人を憶えていない
   いなくなった人の 証拠を身に帯びて
   春は自然に消えてくれる

 「春には誰かがいない」という、おもしろい感覚の作品だと思います。「きっと とても激しい開花だったのだろう」「春はどこか遠くをぐるりと一周して」「この世をどこかの世界から切り離す」など、各連ごとに重要なフレーズがあって、作者の並々ならぬ才能を感じます。そうかと思うと「いなくなった人の 証拠を身に帯びて」というフレーズでは、人間に対する深い愛情を感じます。作者の感覚、人間性ともに優れた作品だと思いました。



  詩誌『地下水』167号
  chikasui 167    
 
 
 
 
2003.3.1
横浜市港南区
横浜詩好会・保高一夫氏 発行
500円
 

    むくろ    木村雅美

   理由
(わけ)もなく
   こぼれた涙
   かまいたちが
   私の肉体
(からだ)
   抉る
   痛みもなく
   血の海が拡がる

   一晩中見続けた夢は
   父が
   母が
   兄が
   地獄と極楽と
   真夜中の炎天下で
   眠る事を許さない

   固まった指を
   一本一本
   揉みほぐす
   そして
   なにげなく
   床を離れる

   朝食は
   味も無く
   香りも無い
   鳥のさえずりも
   聞こえない
   噛むことだけに
   専念する

   言葉を失い
   対話のない世界は
   唯 色だけが
   息づいている
   いつからか
   私の心は
   遊離して
   肉体
(からだ)
   他人
(ひと)に踏まれて
   土となる

 「一晩中見続けた夢」で「いつからか/私の心は/遊離して/肉体は/他人に踏まれて/土となる」、それが「むくろ」だ、と読み取れる作品ですが、「地獄と極楽と」というフレーズが鍵になると思うのですけど、それは何かは判りませんでした。そこから先は読者の想像の世界、ということで良いのだと思います。あるいは「むくろ」そのものが主題でありますから、そこに関連付けて鑑賞しても良いのかもしれませんね。
 ルビは、現在の日本語ホームページソフトではうまく表現できません。やむなく新聞方式+小文字化としました。ご了承ください。



  個人誌『陽叛児通信』2003年3月号
  hihanji_tsushin_2003-3    
 
 
 
 
2003.3.15
横浜市金沢区
木村雅美氏 発行
非売品
 

 何かの会報とは思えませんので、勝手に個人誌≠ニ書きましたが間違っていたら訂正します。「陽叛児」はひはんじ≠ニ読むのでしょうか。

 編集後記にあたると思われる「ランプ」というコーナーでは、木村雅美さんが市町村合併について触れていました。「経費削滅のはずの市町村合併が身分保障の特例で、議員の数は増え、議員報酬は高い方を採用し、合併太り、その上、多額の補助金が国から支給されるとあって、箱作りに余念がない」とあります。さもありなん、という気がしますね。神奈川県では湘南市″\想が白紙に戻りました。湯河原町と真鶴町の合併もそう簡単ではないようです。住民とは誰か、という基本に立ち返るひつようがあるでしょう。そんなことを考えさせられた「ランプ」でした。



  会報『南国忌の会会報』20号
  nangokuki_20    
 
 
 
 
2003.2.1
横浜市金沢区
長昌寺内・南国忌の会 発行
非売品
 

 直木賞で知られる直木三十五の墓は横浜市金沢区の長昌寺にあります。毎年2月に「南国忌」として直木を偲ぶ会が開かれており、紹介した冊子はその会の会報です。木村雅美さんに『地下水』『陽叛児通信』とともに送っていただきました。

 南国忌には私も行ったことがありますが、今年は行けませんでした。講演は木々高太郎についてだったんですね。元東京女子医科大学教授の小山生子さんという方の講演録が載っていました。大脳生理学の権威として、探偵小説の売れっ子としての木々高太郎の人生は教えられることが多いように思いました。





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