きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

  kumogakure  
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科

2003.5.5()

 子供の日で会社はお休み。日本詩人クラブの理事仲間の引越し祝があるというので、誘われて東京・田無に行ってきました。彼は完璧な芸術肌で、詳しくは知りませんが芸術一本で生きている男です。おそらく定職もないはずで、金が無いから呑み会には行かないとはっきり宣言しています。でも、いい感覚をしているんですね。詩はちょっと私の好みではありませんけど、その高い芸術性は判ります。祖父が有名な童話作家でしたから、その血を受け継いでいるのだろうと思っています。

 そんな彼ですから、新築ではなく改築だとも言っていましたし、田無と云えども東京都内ですので、どうせ狭い家なんだろうなと想像していたのですが、行ってみて本当に驚きました。宅地は65坪ほどで、家は何と75坪という建坪で、立派な家なんです。どうして?と思ったら、いろいろと教えてくれました。もともとは歯医者さんの診療所兼自宅だったそうです。28年間放置されていて、それを改修するのに、彼に惚れ込んだ大工さんに出会って、相当安い値段でやってもらったようです。土地はタダ、というのがイマイチ判りませんでしたけど、まあ、そうなっても不思議でない雰囲気を持つ男なんですね。

 リスニングルームに圧倒されました。もとは診療室だったようで、20坪くらいですかね、かなり広い。そこに英国製のバカでかいスピーカーがあって、その音にすっかり参ってしまいました。私はそこでほとんどの時間を過してクラッシックを楽しみました。私ももともとは音キチの部類だったんですが、最近は遠ざかってしまって、本当に久しぶりに音を堪能したという気になりましたね。


 パッフェルベルのカノンやボレロを楽しんで、つくづく考えてしまいました。こういう生活をどうして失ってしまったんだろう? 一日に2時間も3時間も音楽を楽しむ生活をどうして忘れてしまったんだろう。アンプは古くなって捨ててしまいましたが、スピーカーは幸いまだ残っています。彼の英国製に比べればおもちゃのようなものですが、一世を風靡したデンオンのDS-28Bというモニタースピーカーです。これを生かすこと、そんな生活を楽しむことを考えないといけないなとつくづく思いましたね。いい刺激になった一日でした。



  詩誌『蠻』133号
  ban_133    
 
 
 
 
2003.4.30
埼玉県所沢市
秦健一郎氏 発行
非売品
 

    手を枕にして    山浦正嗣

   小さな庭に
   春一番という風が吹いたと思ったら
   寒いところへ引き返していった
   忘れ物でも取りにいったのだろう

   ごろ寝して
   芽吹きの枝に
   ぶらさがっていた枯葉を
   探していた

   落ちた葉っぱは
   かげ雪のうえに張りついていた
   飛び石のように
   土埃にまみれた雪が残っている

   もうすぐ
   古い風は
   新しい風になってやって来る

   山を越えてきた空を
   家出した雲が浮遊していた

   雲に酒を飲ませて
   一緒に酔っ払ってみたいと思いながら
   手枕で
   ぼんやりと生きている

   木の椅子が
   きしんだような音を出したが
   テレビはつけたまま

   視ていない

 まるで自嘲ともとれる作品ですが、憧れますね。「春一番」を「忘れ物でも取りにいったのだろう」と見る余裕。「雲に酒を飲ませて/一緒に酔っ払ってみたいと思」う発想。「テレビはつけたまま」で「視ていない」のは、関心が薄れた心境を表現していると思いますが、それすら私の憧れの対象です。のんびりとは違う、倦怠感に満ちた作品なのですが、それで終るわけがないと感じるのは、この作品の前に置かれた「草履道」という前向きな作品を読んでいるせいかもしれませんが…。

 秦健一郎氏の連載小説「地果つる処までも−油屋熊八物語−」は、毎回まっさきに拝見するのですが、今号も期待を裏切りませんでした。別府・湯布院観光開発の物語です。地図を引っ張り出して、小説に出てくる地名を確認しながら読むというのは、私にとっては新しい読書法です。



  詩誌『弦』26号
  gen_26    
 
 
 
 
2003.5.1
札幌市白石区
渡辺宗子氏 発行
非売品
 

    冬空    佐藤道子

   終列車に乗り遅れ
   満月の鉄路で
   父と歩き 拾った小石

   石の中に住む
   古代魚は
   躓きに閉ざされた瞳を開く

   春の畔 釣り糸たれ
   陽ざしの下に待つ

   重ね解ける 行手の針の
   辿る光輪
   窓辺に棹さす 父の供犠
   饗宴の皿の魚

 前半2連と後半2連とで大きく分かれていますが、「魚」という言葉で統合させた作品だと思います。「古代魚」と「饗宴の皿の魚」、そこに重要な役割をするのが「父」だとも思います。いずれも過去の話であって、回想している現在は「冬空」のもと、そう読みとって間違いないでしょう。時間軸を充分に計算した佳作だと思いました。



  季刊詩誌『天山牧歌』59号
  tenzan_bokka_59    
 
 
 
 
2003.4.25
北九州市八幡西区
「天山牧歌」社・秋吉久紀夫氏 発行
非売品
 

    琵琶を背負う天女    秋吉久紀夫

   飛天と聞くと、すぐに金の冠を被り、
   上半身ヌードで透けるような羽衣を着、
   箜篌
(くご)や笛や琵琶、竪琴を吹き奏で、
   歌をうたって、自由に空を、
   泳ぎ回っている天女だと描いていたが。

   はるばると砂岩をくりぬいた莫高窟の
   千とある洞窟にやって来てみて、
   色とりどりの飛天たちが暗がりを、
   蝙蝠のように飛翔しているのに驚いた、
   頭を丸めた天女までいたとは。

   そのなかで、特に興昧をそそられ、
   手に持つライトを唯一の頼りに、
   飽くほど見つづけたのが、琵琶を背に、
   裾を翻し、歌をさえずる天女だった。
   なんと眺めているだけで踊りたくなる。

   人間世界の人々よ、眠りから目覚めて、
   あなたの周りをしかと見てごらん。
   だれもがにこにこと頬笑むけれど、
   ほんとはいつでもこころは地獄、
   狼みたいに餌を求めて彷徨
(さまよ)うばかり。

   砂漠は見渡すかぎりの荒れ野だけれど、
   やがて地下から泉は湧き出るもの。
   ねぇ、地面に下ろした根のあるかぎり、
   若枝は時空を超えて延びるのよ。
   わたしの務めは天地の間の七色の橋。
                     2002.11.22

   *敦煌莫高窟の飛天のなかで、特に注目するのは、第二一二窟の西壁に描かれている中唐期の「反弾琵琶伎楽」である。

 私も「上半身ヌードで透けるような羽衣を着」ている「飛天」しか思い浮かばなかったのですが、違うのですね。「頭を丸めた天女までいたとは」驚きです。第4連の「ほんとはいつでもこころは地獄」というフレーズは身にこたえます。実際にそうだと思います。
 作者は実地で敦煌を調査して、紹介した作品のような思いをしたのでしょうが、私はその作品を通して敦煌や生き方を勉強させてもらった思いでいっぱいです。





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