きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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「クモガクレ」 |
Calumia
godeffroyi |
カワアナゴ科 |
2003.5.10(土)
日本詩人クラブの第54回総会が神楽坂エミールで開催されました。正直なところ、この日を待ちわびていました!! 私が理事を解任されたのです。万歳!
こんなことを書くと私を理事に推してくれた皆さまに申し訳ないし、失礼なことなのですが、やはり正直な気持は表現したいですね。
日本詩人クラブの規約では、理事は2期4年が限度とされています。それが過ぎると1期2年は理事になることができません。その後、会員投票で選ばれたらまた2期4年を限度に…が繰返されます。本当にいい制度だと思いましたね。もちろん最初から出来ないと断ることも可能で、何人かの人は様々な理由で断ります。色々な事情を抱えている人も多いわけですから、それはそれで致し方のないことだと思います。私の場合は出来ると思ったから引き受けただけのことです。
実際にやってみて、本当に大変でした。総務を2年、広報を2年やりましたけど、やなりの時間を取られます。休日はもちろん、会社も月に1、2度休まないと仕事が進みません。最後の1年間は会社の職場異動もあったせいで、あちこちに迷惑をかけながら何とかこなした、というのが実情でした。
まあ、そんなことをグダグダ書いてもしょうがないのでこの辺でやめましょう。写真は懇親会の一場面です。この時間は理事をすでに解任されていましたから、晴れ晴れと呑んでいました。最後の1年は、場合によっては会社大事で、理事は途中で放棄せざるを得ないとも考えていましたから、この時間を迎えられたことは感激でした。
でもやっぱり、いろいろな人に迷惑をかけて来たなぁ、支えられて来たなぁ。皆さんのお陰で無事に過させてもらえたなぁ、と思います。ご支援、ありがとうございました!
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新・日本現代詩文庫17 |
2003.4.30 |
東京都新宿区 |
土曜美術社出版販売刊 |
1400円+税 |
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習俗
発車まぎわの最後尾の電車に
いちにちの日当二百四十円なりをにぎりしめた
日雇人夫が土埃といっしょにのりこんだ。
満員の車内の人はいちどに
物体をみるような目でかれをみた。
汗と野天の臭気が
乗客のはなづらをなぐった。
かれは全身でいきをしながら
ほっとつぶやいた。
「やっとまにあった。」
そうだ。
君たちはいつも
のりおくらされつけていた。
著者の50年を越える詩作品を集めた全集ですから、そのうちの1篇を紹介するというのは非常に困難な作業でした。それでもこのHPの鉄則としている1詩集1篇を守るために選び出した作品が「習俗」です。「十代の孤独(1951〜52)」という総タイトルのもとにありますから、文字通り著者が18歳か19歳の頃の作品と思われます。今から50年ほど前、私が生れて直後の作品ですが、この詩人の本質がよく表現されている作品だと思いました。
今の時代からは、ややもすると「日雇人夫」に対する単なる同情・憐憫と受取られかねませんが、そうではないと思います。詩集全体を通して、この作品は「日雇人夫」に対する連帯≠フ作品と考えられます。「君たちはいつも」のフレーズの裏に俺たちはいつも≠ニいう言葉が潜んでいることを感じるのです。井之川巨という詩人の作品は常にそこに足を置いているように思います。
この姿勢が50年経った現在もまったく失われていないことに驚き、敬服しています。常々、若い頃にしっかりと物事を考えた人間は、生涯の思想をそう易々と変えるものではないと思っているのですが、その典型のような詩人だと思います。戦後の生活者としての思想、詩人としての思想を堅持し続ける詩人と云っても過言ではないでしょう。教えられることの多い生き方であり詩集だと思いました。
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2003.4.25 |
東京都品川区 |
日本中央文学会・鳥居 章氏 発行 |
400円 |
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孫引きで恐縮ですが、(編集部)氏の連載「実作上のことども(五十四)」が傑作でした。チェーホフのメモとして次の言葉が紹介されています。
〈神経病や神経病患者が殖えたのじゃない、神経病に眼の肥えた医者が殖えたのだ〉
〈恋文の一節――お返事の切手を同封しました〉
〈孤独が怖ければ結婚するな〉
〈昆虫界では芋虫から蝶々が出るが、人間界では反対に、蝶々さんから芋虫が出る〉
チェーホフと云えば「桜の園」が有名ですが、たぶん読んでません…。ましてやメモなど見る機会もなく、こんな洒落た言い回しをする作家だとは知りませんでしたね。この紹介のあと(編集部)氏は次のように続けます。
ちなみに、『かもめ』『桜の園』などに喜劇と銘打ってある意味は、その反語性によるのは
もちろんだが、悲劇と喜劇、その両者の接点に横たわる一見なんでもないような、い
うなれば、誰しもにあるであろうそこはかとない意識の隙間みたいなところにメスを
入れ、その奥にひそむ要素のドラマ化だし、またそうした着眼性ゆえに、それまでの喜
劇、たとえばシンクとか、モリエールなどとは異なる、一種いい難い、人生劇とはな
っているのであって、作者の意向は受容しつつも、あれは悲喜劇(3文字に傍点)なのだと見る方が、
読者の側として賢明であろうかとさえ思う。
こういう解説をされると、メモも含めて読んでみたくなりますね。
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2003.6.16 |
埼玉県さいたま市 |
燦詩文会・二瓶 徹氏 発行 |
非売品 |
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鳥への歌(一) 坂尻晃毅
空は 自由か
そこに苦しみはないか
鳥よ
空は息苦しくないか
地上より
おまえたちは縛られてはいないのか
空というその場所に
羽ばたくことを
飛ぶことを
やめたいと思うことはないか
鳥と呼ばれる生き物として生まれたことを
悲しく感じる一瞬さえも
おまえたちにはないのか
温かくやわらかな
ほんものの翼を持たないわれわれを
巨大な鉄の翼で 薄っぺらな人工素材の翼で
おまえたちの真似事しかすることのできない
われわれを
おまえたちはそれとも
哀れだと思うだろうか
失墜したイカロスの蝋の翼を
彼の祈りを
おまえたちは嘲笑うか
鳥よ
おまえたちであることは
そんなにもすばらしいことなのか
鳥というと自由の象徴のように言われ、古来からの憧れの的というイメージが強いのですが、それにある意味では異議申立てをしたところがこの作品の素晴らしいところだと思います。そういう既成の価値観を壊すところから新しいものは生れるのでしょう。「巨大な鉄の翼」はもちろん飛行機のことで、「薄っぺらな人工素材の翼」とはハンググライダーやパラグライダーを指すのでしょう。ハング・パラに関しては擁護者と自負していますが、それをちょっと置いてもこの異議申立てには共感します。
さて、破壊の次に私の期待する新しいものは、この作品ではまだ表出していないと思います。(一)とありますから、それは(二)(三)で出てくるのでしょう。今後の『燦α』を拝見するのが楽しみになってきました。
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詩誌『燦α』別冊 |
2003.5.16 |
埼玉県さいたま市 |
燦詩文会・二瓶 徹氏 発行 |
非売品 |
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地球俵
明るい春の日差しのもと 自転車の荷
台に載せられた地球儀 かって私の机の
上にも手作りの地球儀は有った 覚束な
い手先の私を見かねたのか 先生が手を
貸してくれた記憶は有るが 何時の間に
か それは忘却の彼方に失われていた
失われた時への憧れを抱き 失われた
物達への愛着を持つのも 既に老いの兆
しであろうか 何時までも十代や二十代
のつもりではいても 確実に年齢を重ね
ていくのは避ける事が出来ない 己の円
熟の極みに 何が侍ち構えているかだ
春先の風はまだ冷たい だが確かな足
取りで地球は動いている 見えない螺旋
の軌道を描いて 壮大な銀河の動きの中
へと取り込まれてゆく太陽 宇宙に浮か
ぶ蒼い地球と重ねながら 白梅の薫る町
中で 自転車の荷台の地球儀を見送る
「自転車の荷台に載せられた地球儀」を見てかつての「手作りの地球儀」を思い出したり、「壮大な銀河の動きの中へと取り込まれてゆく太陽 宇宙に浮かぶ蒼い地球」を思うという作品ですが、「確実に年齢を重ねていくのは避ける事が出来ない」というところに力点が置かれていると思います。でも「失われた時への憧れを抱き 失われた物達への愛着を持つのも 既に老いの兆しであろうか」というのは、ちょっとまだ早いんではないかなとも思いますね。
「忘却の彼方」「己の円熟の極み」「壮大な銀河の動き」なんて紋切り型の言葉を濫用しているようではまだまだ。著者は私と同年代ですから遠慮なく書きますが、そんな言葉をブチ破るためには「老い」ている暇なんかないですよ。場合によっては死んでる暇もない^_^; 「自転車の荷台に載せられた地球儀」という素晴らしい素材に着目できる人なんだから、そこから「己の円熟の」視点を展開してほしいですね。それが出来たら「老いの兆し」が出てきてもしょうがないでしょう。
というようなことをグダグダやりながら、また呑みましょう、ご同輩!
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