きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

  kumogakure  
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科

2003.5.14()

 営業担当社員の訪問を受け、客先に提出するデータの打合せをしました。2年ほど前に私が手がけた製品の評判が良いようで、使い続けるためにさらに性能を上げて欲しいという要望があったそうです。現在のままでも競合他社品の性能は上回っていますが、さらに性能を上げることで追随を許したくないという営業判断もあるようです。
 技術的には大きな問題はなく、充分可能です。でも若干の克服しなければならない課題も見え、そのデータをどうやって取るか、そんなところを打合せしました。


 その製品は従来の技術の延長ですから、商品としての面白みはあまり無かったのですが、先日、売上げの表を見せてもらって驚きましたね。私たちの扱っている製品の中では、何と2位の売上げだったのです。かなり軽い気持ちで造ったものが屋台骨になっているということが判って、満足しているとともに、何が幸いするか判らないものだとつくづく思います。新製品には、そういう運のようなものもついているのではないか、そんなことも感じました。

 口が滑ったついでに書いちゃいますと、私の異動する職場も運が良いみたいですよ。入社以来20年ほど在籍した職場は、当時の全国シェアの7割近くを誇っていました。現在は商品としての価値が下がって、全国シェアは保っているものの売上げそものが急激に落ちています。異動した現在の職場のある製品は、当時のシェアはほぼ10割だったものの、市場規模が小さく、社内での営業貢献利益という面では微々たるものでした。それが現在のシェアは7割ほどに落ちたものの、市場規模が急激に拡大して営業貢献利益ではついにトップに踊り出ています。だから私としては、いつも忙しい職場しか経験していない^_^;
 この不況の中、うれしい悲鳴としておきましょう。



  鈴木俊氏編訳ベアト・ブレヒビュール詩集
  veato    
 
 
 
新・世界現代詩文庫4
2003.3.30
東京都新宿区
土曜美術社出版販売刊
1400円+税
 

    

    T

   村は人の目でいっぱいの都会である。
   都会は
   まちがった場所にある村である。

   わたしはお前を知っている。知っていると思う。
   わたし達はずっと離ればなれに住んでいる、
   草は草、空はお天気、
   睡眠は朝までの死、─
   わたし達は互いに知っている。知っていると思っ
    ている。

   互いに挨拶を交わす、
   互いに腹をさぐり合う。

   土地は金、時も金なり、
   言葉も金。
   「昔はなにもかもがこんなじゃなかった」
   と昔、わたし達はそう言って手をこまねいて立っ
    ていた。

   恋人の様子をうかがうためにカーテンがある、
   街路
(マチ)に上る者、街路(マチ)から下りてゆく者。
   カーテンから透けて街路
(マチ)が見える。
   街路
(マチ)からはカーテンに隠れている人は見えない・

   「法の前では万人は平等」
   村の前で平等な者は誰もいない。
   おのおのが自分の場所を持っている。
   人がどこに住もうが知ったことではない。
   村に生まれた者でなければならない。
   ここでは誰も語らない、
   話すだけ。
   語る者は、負けたのだ。

 著者のベアト・ブレヒビュール氏は1939年スイス・ベルン州生まれ。略歴には1993年〜1999年スイス・ドイツ語圏ペンクラブ会長、とありました。
 この詩集には『一人の村の住人の健康な説教』『ブレーキ連祷』『打ち据えられた犬は寺の柱に小便をする』『イメージと僕』『ぼくの足は膝まですりつぶす』『ペースメーカー』『外では中国と同じような月が』『アニ』『夢の木槌』『気温降下』『山の伐採について』という詩集と、4冊の句集からの抄録が載っていました。詩集のタイトルを眺めるだけでも面白いし、スイス人の俳句というのも興味深いところです。

 紹介した作品は『ブレーキ連祷』という詩集の中からのものです。作品「村」はT〜\までが載せられており、そのTを紹介しました。「村」と「都会」についての考察が面白い作品です。第1連の「都会は/まちがった場所にある村である。」というフレーズは新鮮で、妙に納得できるものがありますね。街を「街路
(マチ)」とした訳者の意図も伝わってきます。現代スイスの、あるいは現代ヨーロッパの詩人を知る上では恰好の一冊だと思います。



  安川登紀子氏詩集手紙、遠い日へ
  tegami toi hi e    
 
 
 
 
2003.5.19
東京都文京区
詩学社刊
1900円+税
 

    心臓

   孤独が時を刻む
   ドク ドク ドク

    *
    
ひつぎ
   私の棺は
   あなたの内部に
   潜ませておきたい
   死んだら
   そっと
   そこに納まりたい

    *

   ひとが死に
   夢のようにまた一つ
   昼顔が咲く
   緑の川沿いの道

    *
      
たま
   地球は球だから
   ぼくから一番遠いひとは
   背中あわせの
   君

    *

   心の疲れた時には
   雲を見ると
   どんな人よりも
   雲が親しいもののように思われ
   気を許していると
   疲れで濁った心が
   スッと透明になり
   雲の傍にいってしまう

 著者第4冊目の詩集です。28編の作品の中から「心臓」という詩を紹介してみましたが、第4連の地球は球だから≠ニいう詩に惹かれました。「ぼくから一番遠いひとは/背中あわせの/君」というのは説得力がありますね。一番近しいものが一番遠い、そんなアイロニーを感じます。著者の深遠な感受性に溢れた詩集だと思いました。



  個人詩誌『粋青』33号
  suisei 33    
 
 
 
 
2003.5
大阪府岸和田市
粋青舎・後山光行氏 発行
非売品
 

    確かめたくて
            クールべ「波」

   有名な画家の
   多くの作品がならぶ美術館
   終了まであとわずかになった日の夕暮れ時
   たった一枚の絵を確かめたくて
   私は立ち奇ってみた

   かつて私の将来を決め
   一生を決めるために訪れた地で
   あなたの名前を知り
   強烈な印象を受けた
   あとで調べて見ると
   美術の教科書か何かで
   同じものを見つけることができた
   昭和三十八年の夏頃
   島根県の松江市だった
   あれからほぼ四十年
   目標とした会社で
   定年の年齢を迎えようとしている
   いつか訪ねたものが
   今 向こうからやって来て
   私のすぐ近くの
   美術館をいっぱいにしている

   なかにあの時の一枚があるかどうか
   確かめたくて
   絵の前に立って見ると
   同じ題名の作品が
   三枚も並んでいた
   わずかに記憶と異なるような気もするが
   納得できるものがある
   四十年前の輝きの
   一瞬を固定したまま
   時は止まっているが
   私はすっかり変わり果てている

 クールベの「波」は私も大好きな作品で、作者とは逆に中学校か高校の美術の教科書で出会ったのが最初です。それから10年ほど経って東京・上野の国立西洋美術館で対面しました。砕け落ちる波の一瞬を切り取ったクールベの発想への驚きは、今でも鮮烈です。「同じ題名の作品が/三枚も並んでいた」というのは、西洋美術館の解説によると同じ年(村山註:1869年)に描かれたと推定されるほぼ同じ構図の異作が数点存在する≠ニありますから、それを指しているのかもしれません。

 作品最終行「私はすっかり変わり果てている」というフレーズには共感しますね。作者と私はほぼ同年代、「あれからほぼ四十年/目標とした会社で/定年の年齢を迎えようとしている」という年代を迎えた私達の共通の感慨でもあると思います。
 作品に刺激されて、久しぶりに美術館や展覧会のパンフレットを引っ張り出してみました。クールベの「波」が収蔵されているのが国立西洋美術館であるというのも、その中で確認しました。印刷物ではあるけれど、やはり絵を見るのは心地よいものです。作者は詩のみならず絵も描いています。うらやましい限りです。



  個人詩誌『みっきー』2号
  mikki 2    
 
 
 
 
2003.3.22
東京都練馬区
みっきー舎・尾崎幹夫氏 発行
非売品
 

    たのしい    尾崎幹夫

   いなかの森を歩いている
   木の実がたくさんおちている

   こどものときにひろった実だ
   「たのしい」だ
   とおもいだす

   殻をわり ひとつぶ口にいれる
   実はくだかれ
   たのしい いち
   と言っているようだ
   こどものときのたのしかったおもいでが
   もどってくる
   ぽけっとをいっぱいにしてかえる

   いちにちにひとつぶずつ食うことにする
   たのしい に
   たのしい さん

   なぜかたのしい ご にとぶ
   食うごとに
   そのしゅんかんだけがたのしい
   実はゆっくりと滅っていく

   よかんがしている
   殻をむいて食いつづけ
   さいごのひとつぶになったとき
   その実は
   たのしい し と言うような

 「木の実」は胡桃か栗か、他のものか判りませんが、この「たのしい」という気持ちは私にも「おもいだす」ことができます。それが「たのしい いち」「たのしい に/たのしい さん」と続くことが尾崎詩の魅力だろうと思います。この発想は私などにはほとんどないことを気付かされました。「いち」「に」「さん」と順番をつけることで、「さいごのひとつぶになったとき/その実は/たのしい し と言うような」視点が出てくるのでしょうね。人間の思考、個人の認識の違いによって(当然と云えば当然なんですが)詩の方向性が違うということを教えてくれた作品です。





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