きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

  kumogakure  
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科

2003.5.18()

 埼玉詩人会主催の「埼玉詩祭」に行ってきました。場所は何度か行ったことのある「さいたま芸術劇場」です。相変わらず最寄の与野本町駅はきれいでしたね。ちょっと早めに着いたのであちこちを散策しました。駅前は薔薇が満開で、近くのお寺も風情がありました。何度行っても良い処だと思います。

 詩祭のメインは第9回埼玉詩人賞贈呈式。今年はなんと鈴木東海子さんが受賞しました。東海子さんって、とっくに貰っていると思っていましたから、ちょっと驚きでした。本当に東海子さんは奥ゆかしい
^_^;
 東海子さんの紹介は井坂洋子さん。紹介されてちょっとだけお話ししましたけど、彼女は私とまったくの同じ歳なんですね。それにしては若く見えるなぁ。昔はもっと若かったのよ、なんて言ってたけど、当り前だよね。

  030518

 写真は井坂さんですけど、実は何とか見られる写真はこれしか撮れなかったのです。席が後の方でしたので望遠を使ったのですが、やはりデジカメの望遠はダメだねぇ。シャッタースピードが遅くなって手ブレを吸収し切れない。本当はもっと美人なんだと付け加えておきます。

 そんな訳で東海子さんもゲストの金子兜太さんの写真もボツ。でも話はおもしろかったですよ。特に金子さんの詩人を意識した俳人としての話は、第二芸術論を根底に置いていましたから、相当力が入っていましたね。とても84歳のおじいさんの話とは思えないほどパワフルでした。

 本日の最大の収穫は、鈴木東海子さんのご主人と二次会で息投合したことです。造型作家なんですね。彼の芸術論はかなり納得できます。歳も同じくらいかな? 同じ時代を生きてきたという感じを受けました。一度、個展に行ってみたいものです。



  文屋順氏詩集『色取り』
  irotori    
 
 
 
 
2003.5.31
東京都東村山市
書肆青樹社刊
2400円+税
 

    27

   その日の非は
   夜になればはっきりする
   絶えず多くの欲望を振り回し
   悪意のどん底をさすらっている
   何のための宿命だろう
   私の生命の鏡に映る胸の内が
   スローモーションで動いている
   予想外の真剣さで
   自由を求める道化師が
   苦しい涙をこぼす時
   その孤影がサーカステントの中で
   遠回りして来た過去を晒し
   遥かな故郷の一本の檜を思い出す
   どんな星の下に生まれてきたのだろう
   明るい夜景を望み
   星の輝きをかろうじて見つけ出す
   どんな星の下に
   私たちは引き寄せられたのだろう
   代わり映えのしない道の上を
   赤く腫れた足の親指を庇いながら
   私は不自然に歩き続け
   凍ってしまった順不同の夢を抱いては
   終わりのない構図の中に身を置いている
   果たして
   私の支えとなる光の天使は存在するのだろうか
   綺麗なネオンの灯りに誘われて
   思わず入ったスナックで
   突然現われる苦しい蹉跌を味わう
   流されては救い出され
   中途半端なまま
   ようやくここまで生きて来た
   後はまずい酒に酔って
   死んだように眠るだけだ

 詩集のタイトルは「色取り」で、個々の作品には1から28までのナンバーが付けられているだけです。一冊の詩集で一篇の詩と見ることもできるでしょう。著者はあとがきで「タイトルは、私の周りにある無色の日々の有り様を色取る意として、『色取り』とした」と述べています。

 紹介した作品は最後から2作目のものですが、まず冒頭の「その日の非は/夜になればはっきりする」というフレーズに惹かれました。その通りなんですね、共感しました。そして「流されては救い出され/中途半端なまま/ようやくここまで生きて来た」というフレーズ。これも本当にその通りだなと思います。「後はまずい酒に酔って/死んだように眠るだけだ」というのも判る。そういうことがようやく判ってきたんだな、俺たち、という感じですね。

 あとがきによると著者は50歳を過ぎて、とありますから私よりちょっと若い。演歌みたいで嫌なんですけど、50を過ぎて判ってくるものって、やっぱりあるように思います。そういうものをたくさん感じた詩集です。



  詩誌ひょうたん20号
  hyotan_20    
 
 
 
 
2003.4.10
東京都板橋区
ひょうたん倶楽部・相沢育男氏 発行
400円
 

    あるがまま    阿蘇豊

   むかし、うちにあったひょうたん
   仏壇のよこでほこりをかぶって
   ねばならぬ、でなく
   のぞまれる、でなく
   目をみはる、でなく
   あるがままの渋いつらで
   ふくれてはくびれ、くびれてはふくらみ
   口をつぼめてウフフの霧を吐き出した
   バスターキートンのようなひょうたんよ
   くびれがひょうたんの存在証明なら
   なにが今のおれを証明するか
   いつのまにかくびれがなくなった、おれのひょうたんよ

 そうだよな、阿蘇さん、と思わず言って笑ってしまいました(失礼!)。「いつのまにかくびれがなくなった」阿蘇さん、「あるがまま」でいいのかい?^_^; あなた、僕の職場にいたら大変だったよ。腹を顔より前に出して歩くな!≠ニ言われています、真っ先に^_^;;; あっ、俺もそうだ!

 まあ、冗談はさておいて、あとがきに「20号記念ということで、今号は、何かしらひょうたんに関連する作品を掲載することとなったが、ひょうたん倶楽部同人のお手並みいかが――。」とありましたけど、さすが力のある方たちの集りですね。楽しまさせてもらいました。20号、おめでとうございます!



  詩誌『布』17号
  nuno 17    
 
2003.5.20
埼玉県戸田市
阿蘇 豊氏・他 発行
200円
 

    肉    先田督裕

   内という漢字の中に
   人が入って肉になる

   牛の肉 魚の肉 酉の肉 に
   人は入っていないだろうか

   食べられてから人になるのか
   食べられる前から人なのか

 漢字の語呂合せみたいな作品はあまり好きではないんですけど、この詩はドキリとさせられました。動物を食べるということはそういうことなのかもしれませんね。「食べられてから人になるのか/食べられる前から人なのか」。大袈裟に言うと生存への疑問とでも云いましょうか、肉≠ニいう字にはそんな根源的なものがあるんだと気付かされました。考え込んでしまいますね。





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