きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

  kumogakure  
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科

2003.5.24()

 栃木県詩人協会主催の「詩のオブジェ展」が宇都宮の <すまいるプラザ> というところで開催され、行ってきました。詩作品も良かったけど、オブジェも面白かったですよ。抽斗の中に詩が入っていたり、砂時計が何十となく置かれていたりで、けっこう刺激されました。人間の想像力・創造力の奥深さを改めて感じた次第です。

  030524

 写真は栃木県詩人協会の当日の参加者と作品群。居心地が良くて、ついつい長居をしてしまいました。コーヒーを奢ってもらったり、陶芸家からは湯呑をいただいたり、歓迎してくれているのが肌身で感じました。いい一日でした。栃木の皆様、ありがとうございました。



  詩誌『杭』40号
  kui_40    
 
 
 
 
2003.5.10
さいたま市大宮区
杭詩文会・廣瀧 光氏 発行
500円
 

    虚無草    伊早坂 一

     
T

   空地に捨てられていた古い地球儀に、足が止まった。
   ふっと、国立天文台石崎昌春氏の「縮尺宇宙」の話を思い出した。

   きみの本当の直径は約1万2800キロ。
   それを1センチのビー玉とすると、月までが
30センチ。
   その距離をまた1センチにして考えると、
   1億5000万キロの太陽へは4メートルだという。

   きみから太陽までの距離を「一天文単位」というのだそうだ。
   その天文単位を1センチとすると、
25光年の彗座べガへは15キロ余り。
   太陽系を含む銀河の中心部が3万光年、円盤状の直径は
10万光年。
   べガまでの
15キロを1センチにすると、その直径は40メートルだという。

   ではさらにその銀河系の直径を1センチとすると、
   230万光年のアンドロメダ星雲へは
23センチで、案外近い。
   そして、現時点最遠という140億光年のクエーサー(恒星)は、
   銀河系とアンドロメダ星雲との距離を1センチとすると、
61メートル。
   そこから先は、無い。のである。

   猫がのっそり通っていった。
   最後の人が叫んでいる気配のする古い地球儀を手に取って見る。
   ゆっくりと回して見る。
   一周がきょう一日。あるいは有史以来の、とある一日。
   そこから先はない父母未生有史以前のとある一日。
   最後の人は懸命に何と叫んでいるのであろう。
   ああ。とカラスが電線で鳴いた。
   明かるい午前の光を浴びて、タンポポの花は空をじっと見ている。

 大きなものを小さくして考えてみるというのはよく使う手ですが、「縮尺宇宙」はその最たるものなんでしょうね。「銀河系とアンドロメダ星雲との距離を1センチとすると、
61メートル。」と書かれると、良く理解できます。「そこから先は、無い。のである。」というのは衝撃ですけど、現代の科学の到達域と思うしかないのでしょう。未来では「そこから先」も判ってくるのだろうかと想像力が刺激されます。

 「最後の人が叫んでいる気配のする古い地球儀」という観点はおもしろいと思います。「猫」「カラス」「タンポポ」という具体性も作品の効果としては絶大ですね。主題の「虚無草」ともうまくからんでいると思います。「T」とありますから「U」「V」と続くのでしょうか。続きが楽しみな作品です。



  季刊詩誌『火山彈』62号
  kazandan_62    
 
 
 
 
2003.5.10
岩手県盛岡市
「火山彈」の会・内川吉男氏 発行
700円
 

    おすおや
    
雄親の思い    長尾 登

   娘の家に行くなんて
   何年ぶりのことだろう。
   孫が幼稚園に入った頃以来ではないか・・・。
   そうすれば 八年ぶりということになる。
   電車で たかだか小一時間の距離に過ぎず
   家内はしょっちゅう出掛けているというのに。
   「お父さんもいらっしゃいよ」
   と 娘達は再々言ってくれているのだが。

   根っからの出不精――─
   と 一応 自他に弁明はして来たものの
   やっぱり そこにはそれなりの理由があって・・・。
   不肖の父親の 負い目とか 照れとか
   雄親の 自堕落とか 潔癖(禁忌感)とか。
   「仲良くしていれば それでいいさ」と
   韜晦
(とうかい)し 無理に安んじて来た八年。

   そういう 偏屈で怠惰な重い腰を上げさせたのは
   孫からの 名指しでの招きの電話─――。
   行ってみれば 何のことはない。
   百人一首の読み手として
   駆り出されただけのことだったようだ。
   まあ そんなことはともかくとして
   八年ぶりでの 娘宅訪問の
   こそばゆいこと。
   何かに言ったところで
   別の雄の縄張り
(テリトリー)なのだから――─。

   娘達に気付かれぬふうに
   住まいのたたずまいを瞥見する。
   生み付けただけの子供であればある程
   幸せに暮しているか否かは
   腑甲斐無い 老いたる雄親にとって
   何時までも気になるところ。

   一瞥 簡素。
   これ見よがしの調度品や置き物の類
(たぐ)いは
   一切目につかぬが
   娘の子ども時代の夢だった ピアノが有る。
   母子
(おやこ)それぞれ用のバイオリンも。
   孫の勉強机は ドイツ製。
   絨毯の一枚は 小さいながらもペルシャ物。
   いずれも 婿殿の
   愛情と 理解と 経済力を 窺わせるものばかり。

   それを確かめ
   お正月の一通りの遊びの相手を済ませれば
   親父のすることは 何も無い。
   接待の食事の後の
   女三代のおしゃべりの
   彈むこと 長いこと─――。

   かくして
   お土産を持たされ
   タクシーで駅まで送られての
   浦島太郎さながらのご帰還だったが
   翌日は 熱を出して
   どっと寝込んでしまう。
   
<安堵> は げに恐しいもの。

 私には「娘の家に行くなんて」ことはまだまだ先の話ですが、「別の雄の縄張りなのだから――─。」というフレーズにはギョッとさせられました。逆の立場で、嫁さんの父親の訪問を受けたことが何度かありますけど、あの時の義父の心境がいま判った気がします。そうなんですね、「雄」同士だったんですね。作品で「婿殿」は「愛情と 理解と 経済力を 窺わせるものばかり。」が見えて、顔が見えませんけど、無意識に言葉として出てこないのかな、とも思いました。

 インターネットの制約上、ルビが使えません。やむなく新聞方式+小文字で表現しています。ご了承ください。




   back(5月の部屋へ戻る)

   
home