きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

  kumogakure  
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科

2003.6.2(月)

 特になし…なんて一日があってもいいかな(^^;



  月刊詩誌『現代詩図鑑』6号
  gendaishi zukan 6    
 
 
 
 
2003.6.1
東京都大田区
ダニエル社 発行
300円
 

    わたしは    高木 護

   子供のころから
   骨なしさん
   肚なしさん
   胆なしさん
   などといわれているうちに
   熱病で死にかけて
   骸骨さんみたいになったり
   悪い酒で腹が出っ張ってきたり
   モツ焼き屋さん通いをしたりで
   これぞ行なりとは思わなかったけれど
   いまはすっかり
   わたしはりっぱな
   骨なしさん
   肚なしさん
   胆なしさん
   ついでにいわせてもらったら
   能なしさん

 いわば自嘲の作品ですが、共感するところは多いですね。骨太ではないし、骨細どころか「骨なし」。「肚」や「胆」が座っていないどころか「なし」。そういう認識は大事なのかもしれません。どこかの国の首相みたいに、簡単に骨太≠ネんて言えませんものね、我々ショミンは。

 おもしろいなと思ったのは、「能なしさん」です。「能」が高い低い、あるいは「能」が大きい小さいという言い方は無いんですね。あるのは「能」があるか無いか。「骨」「肚」「胆」という身体的に具体性のあるものは太いとか細いとかの、いわば抽象語を使うことができますけど、「能」という抽象語には抽象する言葉が無い、そんなことが言えるのかもしれません。作者の意図とは外れているかもしれませんが、そんなことまで考えさせられた作品です。



  詩誌しけんきゅう140号
  shikenkyu 140    
 
 
 
 
2003.6.1
香川県高松市
しけんきゅう社 発行
350円
 

    定年    倉持三郎

   横の小路から目の前に飛びだしてきた
   黄褐色の大きな犬だ
   綱がついていない
   飼い主があとからあわてて追って走ってくる ――
   その気配もない

   犬ははじめは
   解放された喜びを全身にあらわして
   はねるように出てきたが
   先にひろがっている
   広い道から目をそらした
   道路の真ん中で
   歩みをゆるめた

   小路を振り返った
   飼い主の姿をもとめた
   パジャマ姿をさがした
   私をしげしげ見た
   飼い主ですかと聞いた

   私がつかまえる素振りひとつしないので
   不安な目付きになった
   もう一度
   出て釆た小路を振り返った
   追いかけてきて
   つかまえて鎖につないでくれる
   人をさがした

 これはおもしろくて、すぐ判りますし、でも読んだあとで言い知れぬものを感じますね。「犬」とはもちろん「定年」後の勤め人のことです。私もあと6年ほどで定年を迎えますので、この感覚は理解できるつもりです。もちろん「飼い主ですかと聞いた」り、「つかまえて鎖につないでくれる/人をさがした」りはしないだろうと思うのですが、定年退職した先輩の噂を聞くと、意外とこういう人は多いようです。

 特に私たちの団塊と呼ばれる世代は、高度成長を支えるという自負もあって、仕事中毒者が善とされていました。私の勤務する会社に限って言えば、いまだにその傾向は変わりません。趣味を持とうとか、定年後も社会に貢献できるように勉強しておこうとか、上司から言われてはいますが、本音は現在の仕事だけに集中してくれ、だと受け止めています。



  詩誌『地下水』168号
  chikasui 168    
 
 
 
 
2003.5.10
横浜市港南区
横浜詩好会・保高一夫氏 発行
500円
 

    風    宮崎 聰

   明方の
   しみいる星におわれ
   一杯のお酒をのみほすと
   ぐにっとゆらぐ影のように
   風が
   わきたった

   今は なんとか
   すぼみゆく時代にかじりついているが
   この行先にむかって
   吹く風のつめたさが
   胸にからむ

   あの白くかがやく星を
   くるっと裏返せば
   ぽっかりと
   かぎりない暗闇が
   うずをといでいる

 最終連が新鮮だと思いました。「白くかがやく星」の裏には「ぽっかりと/かぎりない暗闇が」ある。しかもそれはある≠セけではない、「うずをといでいる」のです。それは「すぼみゆく時代」の「吹く風のつめたさ」の象徴でもあります。いい感覚だと思いました。「ぐにっと」という擬態語もおもしろいし、作者の非凡さを窺わせる作品です。



  個人誌『陽叛児通信』2003年5月号
  hihanji tsushin 03-5    
 
 
 
 
2003.5.31
横浜市金沢区
木村雅美氏 発行
非売品
 

 冒頭に「梅香る長昌寺 芋観世音御開帳される 富岡山 芋観音堂」というエッセイが載っていました。長昌寺は知る人ぞ知る、直木三十五の墓があるお寺です。私も一、二度行ってますが、その墓の隣が芋観音堂だったのですね、これは知りませんでした。写真ではちょっと見づらいのですが、中央の建物が芋観音、左に白く見えるのが直木三十五の墓です。

 芋観音の由来について書かれていますけど、これもなかなかおもしろい話でした。芋は里芋のことで、その表皮の醜いことから、当時恐れられていた疱瘡に結びつき、一皮剥くと美しい肌になることから、それを願って芋観音になったそうです。
 <いも神に惚れられ娘値が下り>
 これは江戸時代の川柳。「いも神」は痘(いも)神=B疱瘡を患った娘さんを思うと、芋観音に願いをかけた気持ちが伝わってこようというものです。




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