きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

  kumogakure  
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科

2003.6.4(水)

 終日仕事に追いまくられ、忙しそうに(^^; 過ごしました。私のポリシーとしては仕事を追いかけるはずだったのですが、この1年ほどはうまくいってませんね。自分に余裕を取り戻すコツは、他人に仕事を押し付けること(^^;;; これが一番うまくいってないナ。



  詩マガジン『PO』109号
  po 109    
 
 
 
 
2003.5.20
京都府長岡京市
竹林館・水口洋治氏 発行
800円+税
 

    富士とゴルフ場    南 邦和

   宮崎―羽田間の新春フライト
   海は 湖面のように穏やかに光り
   日本地図の形状のままに 四国南岸
   紀伊半島がくっきりと刻印されている
   御前崎のあたり 左手前方に
   冠雪の富士

    へん お富士さんだって?
    おもしろくもないよ
   深尾須磨子は白富士に毒づいているが
   こんな富士を見るのははじめて
   富士はやっぱり ニッポンイチノヤマ
   ひと目見ただけで得した気にさせる
   そんな山なんてザラにはない

    一富士 二鷹 三茄子
   正月早々 縁起ものの富士で
   いい気分にさせられて ボーイング767が
   房総半島にさしかかると
   眼下に ミミズ腫れの山々の
   シュールな絵模様が飛び込んでくる

   誰の意思で削りとられたのか
   いたるところゴルフ場だらけ
   鳥の眼でとらえる日本列島の
   なんという無残な醜さ おまけに
   スモッグにかすんでいる首都の空
   危なっかしい積木細工の都市

   さっきの富士は幻視だったのか
   ふり返ると 雪の峰々をバックに
   オチョコの富士が遠ざかる
    あらひざらした浴衣
(ゆかた)のやうな
    富士
   と歌ったのは金子光晴だったか
   富士は なまじ見ない方がいい

 富士山は私の住んでいる神奈川県西部地方からよく見えますし、車で1時間も走れば富士の麓に着いてしまいます。そんな関係であまり気にもとめていない山なんですが、普段見ることができない地域の人にとっては感激する山のようです。弊社の新入社員は関西方面の大学を卒業した者が多く採用されていて、彼らは新幹線で上京する際に富士山を見ていて、中には初めて見るという者までいて、その感激を口にします。そんな光景に出会うたび、富士山はやはり特別な存在なんだと認識を新たにしている次第です。

 紹介した作品にもそれを窺えます。作者は九州・宮崎の詩人ですから、地元の私たちに比べれば富士山を見る機会は圧倒的に少ないでしょう。「ひと目見ただけで得した気にさせる」というフレーズに特にそれを感じます。でも、そこはやはり詩人、平凡な感想では終わらせていません。「富士は なまじ見ない方がいい」、こう言い切れる人は少ないでしょうね。深尾須磨子の毒づきより説得力のあるフレーズだと思います。

 話は変わって、「ピロティ」というエッセイのコーナーにおもしろいことが書かれていました。京都産業大学助教授の久米裕子という人の「世界に公開される日記」がそれです。このHPもそうですが、何で私的な日記を公開するのかと噛み付いています。しかし、金子郁容『ボランティア―もうひとつの情報社会』(岩波新書・1992)を読んで少し考えを変えたようです。その部分を紹介してみましょう。

    インターネット上に情報を公開することもまた、
   誰かに強制されたことではなく、見返りも保護さ
   れる保証もない不安な行為である。一般に情報社
   会においては、より多くの情報を入手し、それを
   独占した者が優位な立場に立つと考えられがちで
   ある。しかし同書によれば、自分がもつ情報を隠
   すのではなく、それを積極的に開示して、それに
   対する意見をもらい、今度はその意見に対する自
   分の考えを示すことが重要であり、このやりとり
   の中から無限の情報が得られると言う。

 正直なところ、限られた範囲とは云え、私もなぜ自分の私生活を公表するのか我ながらよく判らないでいました。この文章に出会って初めて自分の心理に気づいた思いをしています。確かに友人は増えています。初めて会っても相手はこちらの状態を知ってくれていて、そこから話は始まり、逆に相手の私生活を開示してくれて一気に話題は深まるという経験をたびたびしています。久米助教授のエッセイの最後には「日記という私的な情報をあえて公開するという行為が新たなタイプの人間関係を生み出しているのかもしれない」と書かれていますが、そうなのかもしれませんね。



  詩誌『驅動』39号
  kudo 39    
 
 
 
 
2003.5.31
東京都大田区
驅動社・飯島幸子氏 発行
 
 

    まゆみの木    飯島幸子

   札幌の北大植物園で
   枯れ枝の花壇の隅に 一際鮮やかな色が目についた
   この時期に 一体何の花かと近づくと
   初めて出合った まゆみの木の実だった
   殺風景な花壇に 花よりも華やかに
   ピンクの実が弾けて ハート形の四つの袋に
   赤い種が詰まっている

   歩き慣れた大森駅への道を 病み上がりの足取りで歩く
   目的地に急ぐ時は 大雑把な風景しか目に入らないが
   目的を持たないでゆっくり歩いていると
   初めての道を歩いているように ひとつひとつが観察できる
   植え込みに まゆみの木を発見した
   札幌へ行かなくては
   二度と見られないと思っていた その木は
   こんなにも身近に ひつそりと立っていた
   少女の笑顔の唇にも似た 愛らしい木の実に
   また 出合うことができた
   おそらく この植え込みがあった時から
   年ごとに 花を咲かせ 実をならせていたのだろう

   バス通りの商店街は
   人通りが少し減ったと思ったら
   銭湯がなくなり 練炭や七輪を売っていた雑貨店が消え
   数多い婦人服の店が いつの間にか消えていく
   それらは 目まぐるしく改装されて 食べ物の店舗に変わる
   世の中の動きにつれて
   変わる景色と 何十年経っても変わらない景色が
   人の生涯のなかの風景として 私の記憶の小箱に収められていく
   季節の変わり目ごとに楽しめる風景が
   私のなかに ひとつまたひとつ 増えていく

 「まゆみの木」とは弓を作る木、と辞書にありました。「ピンクの実が弾けて ハート形の四つの袋に/赤い種が詰まっている」きれいな木のようです。その木は「札幌へ行かなくては/二度と見られないと思っていた」が「こんなにも身近に ひつそりと立っていた」ことに驚き、それは作者が気づかなかっただけで「おそらく この植え込みがあった時から/年ごとに 花を咲かせ 実をならせていたのだろう」と感じています。作者の住む「バス通りの商店街は」「目まぐるしく改装されて」いますが、「変わる景色と 何十年経っても変わらない景色が」ある。そこに気づくと「季節の変わり目ごとに楽しめる風景が/私のなかに ひとつまたひとつ 増えていく」、という作品ですが、この最後の連は秀逸だと思います。「病み上がりの足取りで歩」いたからこそ獲得した感覚なのかもしれません。



  詩と詩論誌『新・現代詩』9号
  shin gendaishi 9    
 
 
 
 
2003.6.1
横浜市港南区
知加書房発行
850円
 

    車椅子    なべくらますみ

   ヒマゴが押す車椅子はスピード感あふれて
   小石を蹴散らす
   大きいばあちゃんの首は
   カタカタ揺れて
   力のない両手が肘掛にしがみつく
   話しかけながらゆっくり押す
   そんな余裕はない
   ヨモツヒラサカの小石
   ヨモツヒラサカの小石
   ゆるい坂道でも 力を抜けば逆行してしまう
   祭壇までの行列に遅れてはいけない
   だからヒマゴも車椅子にしがみついて
   必死に押す
   そして ばあちゃん時間がないよ とばかりに
   走る
   ヨモツヒラサカの小石
   きれいなワンピースに合わせた白い靴の音を響かせて

   オバチャンの結婚式は
   大きいばあちゃん最後の結婚式になるだろうよ
   だから寝たきりのばあちゃんを起こし
   車椅子に乗せた
   留袖よりも安直なドレスを着せて
   そそけ立った白い髪には帽子をかぶせた
   久方ぶりの化粧にも少し力を込めて

   ヒマゴが飾ってくれた車椅子
   白い花で
   花いっぱいの車椅子
   そのうちばあちゃんも
   この教会を使う日が来るよ
   今日のオバチャンのように
   大勢の人に見守られたヒロインになってね
   そのときは車椅子から解放され
   花に囲まれ眠っているのだろう

 特集<血>の冒頭の作品です。「ばあちゃん」「オバチャン」「ヒマゴ」と続く女三代の、まさに血≠フ系譜を背景にした作品ですが、なぜか心休まるものを感じます。「ばあちゃん」は「寝たきり」で、いずれ「この教会を使う日が来る」のですから、心休まる≠ネんて表現はおかしいのですが、そう感じてしまいます。「花に囲まれ眠っている」ことは当然なんだという前提が行間から感じられるからでしょうか。「ヒマゴ」の一所懸命さと「オバチャンの結婚式」という慶事が作品に明るさをもたらしているようにも思います。あるいは産む性としての女性には先天的に与えられた明るさなのかもしれません。作品の不思議な魅力にとりつかれています。




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