きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

  kumogakure  
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科

2003.6.6(金)

 職場の先輩が定年退職を迎え、お祝いの会が開かれました。秋田の工業高校から入社して42年、本当にご苦労さまでしたと言いたいですね。もちろんご本人にはそう申し上げて、寄書にもそう書きました。私もあと6年あまり、すぐにでも跡を追いたいものです。

  030606

 写真は会が始まる前に職場の女性と撮らせてもらったものです。写真の出来は良くありませんが、真面目でおだやかな性格が出ていると思います。こんなおだやかな雰囲気で退職の日が迎えられれば最高ですね。



  詩誌『東国』123号
  togoku 123    
 
 
 
 
2003.5.10
群馬県伊勢崎市
東国の会・小山和郎氏 発行
500円
 

    レシーブ  井上敬二

   平気なの
   それはコートの中だから
   苦しくったって、悲しくったって
   と健気な少女の
   レシーブの手をボールが掠め
   体育館の壁に宇宙が跳ね返る
   その継続に膝が歪み
   腕がささくれる

   世界はいつも
   届かないものを送りつけるから
   遅れてきてしまった者のように
   見送らなければならない
   例えば回転レシーブを編み出した
   魔女のように
   私達が生きているかといえば
   あまりにも違う

   体育館は体育館でありながら
   その屋根といえば
   曲線に遮られた空だから
   いつも世界は円く造られていたのだ
   だから
   少女が路地にたむろするにしても
   貞淑な妻になったとしても
   ひとりの健気な女であり続けるに違いない

   此方はと言えば
   もっと貧しい格好をして
   夕焼けの炬燵に足を入れ
   半纏の紐を締めなおしたりするだけだ
                         浦野千賀子「アタック1」

 第2連がおもしろいと思います。「世界はいつも/届かないものを送りつけるから/遅れてきてしまった者のように/見送らなければならない」というのは、何もバレーボールに限る話ではありません。平凡に「私達が生きている」状態のようでもありますね。
 最終連も秀逸だと思います。女性には三界に家が無いと言ったのは昔の話で、今は少女・妻・母のいずれでも強い(^^; 男は「貧しい格好をして」女性に顎で使われているだけですからね、ご同輩!



  詩誌Messier21号
  messier_21    
 
 
 
 
2003.6.6
兵庫県西宮市
Messierグループ・香山雅代氏 発行
非売品
 

       かぜ
    零秒の息    香山雅代

   クロノスの花衣が 揺らいでいる
   みはるかす 境界の斜面を
   截り裂いてゆく 秒刻
   季節なく
   昼夜なく
   ほのかな ひかりが 火光
(かぎろい)ならば 幸いだが

   疾駆している なにものか
   未だ 姿をみせず
   集合的無意識の 柔毛を 戦
(そよ)がせる
   零秒の息
(かぜ)

   なにに のっているのか
   音なく 羽博く
   息に 御
(の)
   風景を 眦
(まなじり)が追う
   敏捷に 倒れ伏す 表面
   山肌を 撫でる 息
   白頭翁(根っ子草)を 撫でる秒速
   ときに 白みゆく 白狐の群を 薙ぎながら
   さらさら さらさら 流れるばかりに
   右へ 右へと 旋回し
   空を 截る
   カオスの
   なかに 沈思する 異空
   白光
   無量光
   カオスの産衣
(うぶぎ)の 明るさの紋理へ

   ひとつの 生命の 終熄と
   ひきかえに 創られる
   息
(かぜ) とも
   大悲の衣
(きぬ)かとも
   飛翔する クロノスの花衣
   無量域の枝に 懸かる
   透明な 衣
   名づけることができない衣なので
   これを わたしの野と 呼んでみる

 非常におもしろい感覚の作品だと思います。「息」を「かぜ」と読ませるのは大地の息≠ネどの言葉がありますからすぐに理解できるのですが、それに「零秒」が付くと途端におもしろくなりますね。「息」または「かぜ」は大気の移動です。その移動には時間がかかり、例えば秒速××メートルの風≠ニいう表現をするのが一般的です。そこから考えると「零秒」というのは移動が無いということになりますから、移動があるという前提の「息」または「かぜ」というのは大きな矛盾であると言えるのです。しかしその矛盾がおもしろい。自然科学とは違った文学の妙と言えるでしょうね。

 最終連の「無量域の枝に 懸かる/透明な 衣」は「名づけることができない衣なので/これを わたしの野と 呼んでみる」という規定のし方もおもしろいと思います。「野」をそのように定義されるとまったく違った意味合いになり、これも文学の独断場だなと感心してしまいます。香山雅代詩の面目躍如といえる作品ではないでしょうか。

 なお、日本語インターネットの制約上、ルビがうまく扱えません。やむなく新聞方式+小文字化で対応しています。ご了承ください。



  詩・創作・批評誌『輪』94号
  wa 94    
 
 
 
 
2003.5.20
神戸市兵庫区
輪の会・伊勢田史郎氏 発行
1000円
 

    ヘレーン・ハンフの手紙    倉田 茂

   
ふざんぼう
   富山房書店付近の路上で
   江藤淳とすれ違ったことがある
   院生か講師かとみえる男性と
   楽しげに語らい歩く小柄な背広姿に
   えもいわれぬ暖かさを覚えた

   それはそうだろう 私は読んだばかりだった
   ヘレーン・ハンフ編著『チャリング・クロス街84番地』を
   うすい一冊の文庫に収められた往復書簡は
   本を愛する人の思いのぬくもりであふれている
   訳出は江藤淳 私はこの本を透
(とお)して彼を見たのだ

   ニューヨークに暮らすヘレーン・ハンフと
   ロンドンの古書店のフランク・ドエル氏によって
   素敵な手紙たちは書かれた 介在した本も素敵
   ヘレーンとフランクは本が好きな私たちすべてに似ている
   私たちは惑星グーテンベルクの住人なのだ

   印刷された紙の束を抱えたグーテンベルクの銅像が
   ストラスブールの広場に建っていたのを思い出す
   一冊の『チャリング・クロス街84番地』は
   アルザスの金色に輝く葡萄畑から採れたワインだ
   私たちを酔わせ私たちを熱くする文字の豊饒!

   
けいちょうふはく
   軽 桃 浮 薄、金銭第一の世も極まり
   今はない富山房書店のかたわらを歩くたび私は思う
   ワインがなおキリストの血であるならば 本も
   ヘレーン・ハンフの手紙もまた血であるだろう
   脈々と流れ来たり江藤淳をよみがえらす

 江藤淳氏には、1998年に私が日本文藝家協会に入れてもらった直後にお会いしています。と言っても遠くから雛壇を眺めていただけですが…。確かに「楽しげに語らい歩く小柄な背広姿」の似合いそうな方でした。そんなことを思い出しながら拝読した作品です。
 『チャリング・クロス街84番地』は浅学にしてまだ読んでいません。でも「素敵な手紙たち」であったろうと想像は出来ます。こういう詩作品に刺激されて本を求める、これもまた「素敵な」文学との出逢いだろうと思います。それもまた「血であるだろう」とも思うのです。文学が介在する人間と人間の関係、そんな「素敵な」ことを考えさせられた作品です。



  詩誌ACAPPELLA9号
  acappella 9    
 
 
 
 
2003.5.15
滋賀県守山市
徳永 遊氏 発行
非売品
 

    この世    徳永 遊

   俳優の勝野洋から髪の毛と眉毛を数本だけ残
   して抜き 全体に薄くシャドーをかけたよう
   な風貌の元建築業の社長だったその男は フ
   ィリピン人の女に相当入れ揚げ 全財産はも
   とより仕事も失った。失ったどころか あち
   こちに借金をこしらえ 揚句の果ては失踪し
   た。嫁さんも前には居たのだが 愛想尽かし
   されて離縁された。子供は二人居たのだが
   その内の一人は最近 病死した。給料以上に
   頁ぎ込んでいたので借金が相当膨らみ 家賃
   も六ケ月も滞納し その内の四ケ月は家主も
   知らぬ間に又貸しされていた。

   その又貸しされた 「砂山」という若い男は
   その社長の従業員だったそうで お互に保証
   人になりあっていたのだ。その「砂山」もひ
   どい男で 社長が失踪した後ものうのうと住
   み続け 家賃を払うと言いながらも その日
   が来ると何の音もしなくなるのだった。おぼ
   っこい顔をしながらも いつまで経っても払
   おうとしないので 堪忍袋の緒が切れた家主
   が怒鳴り込んで行ったら その借家はもぬけ
   の空。聞けば「砂山」は拘置所に入っている
   と言う。飲酒運転で事故を引き起こし 一、
   二年は刑をくらうと言う。

   尤も最悪なのは家主である。
   荷物は入ったまんまで 一、二年も出て来ら
   れないと言うので 強引に全て捨て去ること
   にしたのである。その残された仕事たるや
   茫然自失になるくらいであった。借家の前の
   駐車場には ハナ紙や空の弁当箱が捨ててあ
   る。夏の日除けの長いヨシズが 束になって
   放っぽり出されたまま朽ちている。気持ちが
   悪いと思いながらも起こすと 中から蜘蛛や
   虫が濡れながら出てくるのであった。そのヨ
   シズを細かくハサミで切っては 帯で掃きな
   がらゴミ袋に詰めて行く。

   「何で私が!」と家主は口惜しさで もごも
   ごになりながら その社長と「砂山」の顔の
   眉毛あたりを チョッキンチョッキンと激し
   く切るのであった。

 この作品の前段としたふたつの作品がある、と言った方が良いかもしれません。作者の計算かどうか判りませんが3編の詩が続いていて、最初は「音」。これはポンポコ山の狸の話。続いて「白」。これは変な病院に行った夢の話。この2編を読んだ読者はその雰囲気で3編に入るのですが、それがこの「この世」なのです。前2編とのギャップがおもしろくてついつい惹かれてしまうという構図になっています。

 そんな訳で3編続けて読むとこの作品は一層魅力を増すのですが、単独で読んでもも勿論おもしろいと思います。下司の勘繰りで「家主」は作者本人ではないかなと思っています。事実かどうかは関係なく、その方が作品としてもおもしろいんではないでしょうか。
 でも、こういう話ってあるんでしょうね、私の住んでいるムラでは信じられないことですが。




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