きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

  kumogakure  
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科

2003.6.21(土)

 19日、20日と山形・新庄に出張してきました。いつもはそれで帰宅するのですが、今回は山形市にもう一泊して山寺へ行ってみました。山寺立石寺は有名なんですが、今まで機会がなくて、というか有名な所は行かない主義だっんです。それが今回は同行した上司の希望があったので着いて行ったという次第です。

  030621

 行って良かったと思いますよ。山形という土地柄か、変に観光地擦れしていなくて落ち着きました。写真は開山堂と言って慈覚大師という方の木像を安置してある処だそうです。こういう小さなお堂が山中にいくつもあって、聖域なんだなと感じました。急な山道を登って、汗びっしょりになってフッを見上げると清楚なお堂。感激しましたね。

 今回で仕事が終ったらまっすぐ帰る、観光地には行かない、というふたつの主義が大きく崩れました(^^; それほど頑なに守るほどのことではないけど、なぜか今までそうやってきました。しかし時間の余裕があって、変な観光地でなければ今後もやっていいかなと思い始めています。それには出張は金曜日に終るようにしなければなりません。そうしよう!



  隔月刊通信誌『原詩人通信』109号
  gen shijin tsushin 109    
 
 
 
2003.6
東京都品川区
原詩人社・井之川 巨氏 発行
200円
 

    春は嫌いだ    宇宙塵

   春は嫌いだ。
   日増しに伸びる陽ざしに、僕の命が縮むのを感じるから。
   そして、陽の眩しさに肉体の細胞さえも異臭を放し腐っていくようだ。
   春は嫌いだ。
   この季節、バカ覚えに誰もが明るい方へ向かおうと、人々が喘ぎ出すから。
   僕は疲れるから、闇へ向かおう。静かな闇へ。
   春は嫌いだ。
   やたらに「新」という文字が飛び乱れるから。
   「新」という文字に騙され、今まで生きてきた蓄積を一時的に奪い消し去り、
   さらに生かされていく企みに、
   どれくらいの人間が気づいているのだろうか。
   春は嫌いだ。
   花々が生の息吹を受けて咲くとき、
   親しい友の死を知るから。
   春は嫌いだ。
   パッと咲いて、パッと散る桜
   あの桜にかつての日本の軍国主義と、「戦争」のイメージが重なり合うから。
   知って感じることだ。パッと咲いて、パッと散らなければならなかった命の重さを。
   春は嫌いだ。
   暗く落ち込む自分を慰める、おせっかいなヤツがいるから。
   どうして春だからというだけの理由で、僕が明るくしないといけないんだ。
   僕は、僕でいい。
   だから、
   春は嫌いだ。

 個人的に春が好きか嫌いかはどうでもいいんですけど、この作品は重要な点を突いていると思います。「バカ覚えに誰もが明るい方へ向かおうと」すること。これは右を向けと言われれば右を、左を向けと言われれば無批判に左を向く私たちのことを批判しているのだと考えるべきでしょう。その結果として「パッと咲いて、パッと散らなければならなかった命」があったのに、いま同じことが起きようとしているのではないか。その理由の根本に無批判な付和雷同があるのではないか。そんなことを訴えていると思います。

 また、春は「親しい友の死を知る」ときでもあるという感覚は素晴らしいですね。春は生命の誕生のときでもありますが、同時に多くの死を越えた結果でもあります。その誕生を見るのか、越えた死を見るのかで詩人の資質は大きく違ってきます。そんなことも考えさせられた作品です。



  詩誌『木偶』54号
  deku 54    
 
 
 
 
2003.6.20
東京都小金井市
木偶の会・増田幸太郎氏 発行
300円
 

    月    野澤睦子

   その季節の真っ只中でなぜかひどく寒い一日がある。
   そんなときは決まって良くない知らせが届く。父は二
   月半ばの。母は十一月の終わり。兄は五月のうららか
   な日和の後の冷たい雨の朝。私は急ぎ帰省の支度をし、
   四時間あまりで古里への橋を渡る。昨日とはまるで嘘
   のように違う穏やかさ。湖に注ぐ大川の水面は春の陽
   光を浴び静かに橋を支えている。水田は早苗が美風に
   全身をあずけている。こんなありきたりな今日が昨日
   であったならと思わないではいられない。かってあり
   きたりな一日を物足りなく思い、仕事も、恋愛も、わ
   ざとジグザグに歪め歩きたがった。思い余ると、その
   ころも何度となくこの橋を渡り、この橋を渡って戻っ
   た。
   ある夏、うら盆の迎え火を家のかどくちに残した深夜、
   兄が突然「これから湖に行ってみるか」と言う。湖の
   縁に腰を下ろし、私たちは冷えた缶ビールを飲んだ。
   風もなく星も見えずまったりとした夜。音も立てず濃
   い水の匂い。不思議な空間に楕円形の赤い月が二つ出
   ていた。ひとつはくっきりと。ひとつは微かに揺れて。
   しばらくすると一瞬にしてあたりが寒くなり真っ暗に
   なった。月が大きな大粒の涙を落とすようにして湖の
   裂け目に沈んだのだ。

 「その季節の真っ只中でなぜかひどく寒い一日がある。」という最初の1行が最後まで見事に活きている作品だと思いました。それとタイトルの「月」が最後に巧く掛かっていて、ある「深夜」の「兄」との行動の背景描写として、これも見事に活きていると思います。作者は今回から新同人として参加なさったようですが、詩人としての底力を感じさせる作品と言えましょう。キチッとした散文詩の中にわずかなズレも感じられ、それも魅力と言える作品だと思いました。



  詩と評論誌『日本未来派』207号
  nihon miraiha 207    
 
 
 
 
2003.6.15
東京都練馬区
西岡光秋氏 発行
800円+税
 

    フルネームの女    田熊 健

   「おりん」と言うドラマをテレビが流した
   ドラマより面白く怖いのは
   呼び方一つでその人間の生きている
   時間と空間が情け容赦もなく
   浮び上ることである

     おりん
     りん
     おりんちゃん
     りんちゃん
     りんさん
     おりんさん
     りんどの
     おりんどの
     りんさま
     おりんさま
     りんのかた
     おりんのかた
     おりんねえさん
     おりんおばさん
     おりんばあさん
     夜櫻のおりん

   りんと言う名の知り人がいる
   だが その人は
   どの呼び方の「りん」でもなく
   そのくせどの「りん」も少しずつ
   染みついて見えたりして
   酔払いはいつもたよりない足どりを
   あなたまかせで近づくのだが
   不馴れな銀行の磨き上げた
   床タイルに足をとられ
   不様な格好で転んだりする
   後頭部の痛さに顔をしかめ
   こんな筈ではと見直すと
   男の転んだのにも気付かぬ素振りで
   あらゆる「りん」をふるい落した女が
   自分のフル・ネームで身をかため
   そこにりんと立っている

 昨年9月に亡くなった田熊健さんの追悼が組まれていました。日本未来派同人4人の他に田熊さんのご長男も追悼文を寄せています。紹介した作品は追悼の頁に載せられていたものです。己を狂言廻しにするのは田熊さんの手法のひとつでしたが、この作品はその好例だろうと思います。「フルネーム」で生きる女と生きられない女、その狭間の「男」、そんな構図の中でジロリと世の中を見ている田熊さんが思い出されます。改めてご冥福をお祈りいたします。




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