きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

  kumogakure  
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科

2003.7.8(火)

 朝から営業のメンバーが入れ替り立ち代り3人もやって来て、マイリマシタ。それぞれが自分のテーマを説明して、私の協力を求めます。こちらも仕事ですから全部やってあげたい。でも、直接の部下は一人しかいないし、指揮権の及ぶ部門は眼の回るような忙しさです。一応、話は聞いて、時間の余裕をみてやるということにしました。それで納得して帰ってくれましたけど、私としては内心、忸怩たるものがありますね。この不況の中、必死で仕事を取ってきて会社の利益に貢献しようとしているのですから、全部を早くやってあげたい。中には、えっ!、こんなんで本当に儲かるの?というのもありますが、まあ、やってみなければ判らない部分もありますからね。バブルの頃なら人もいっぱいいて、どんどんやれたんですけど、今の世の中は選ばなければいけません。効率が求められているんです。頭を遣うことが必要なんです、苦手だな(^^; 。何も考えず猪突猛進していた時代が懐かしいです。



  詩誌『えきまえ』43号
    ekimae 43    
 
 
 
 
2003.6.20
富山県下新川郡入善町
田中 勲氏 発行
500円
 

    まぼろしの抱擁    田中 勲

   急に細る路肩の 長い草のでむかえに
   車の脚がひるんで なかなかたどれない
   とりあえずの目的は
   出端の、虫取り(デッバグともいう、

   「もういちど聞きなおしてみたらどうか」
   みしらぬ声は横柄に聞こえて、
   犀生の旧居の案内板にようやく行きあたる
   風雪に耐えた名士が仲良く肩をならべている
   外からつま先立ちで
   布団を並べてみればみるほど
   他人が紛れこめない
   狭すぎる畳の間の楽しい会話が聞こえてくる

   シャッターを切る声だけが
   窪地に響いて
   山は雲を噴きあげている
   雑草の空地とせまい畑に風がたわみ
   その先にこんもりとした森の別荘がつらなっている
   軽井沢
   豊かな未生の過去が 頬ずりをしてくるのは
   風が透き通る
   裏の通りだからか

   あれっ、父が!
   どうしてこんなところに
   いま小さな男の子の手を取り 白い車に乗りこむところだが
   いったいどこへいくんだ!
   たしか二十年くらいまえ このさきの療養所にいたはずの、
   まぼろしの手を
   追いかけて、
   思わず 立ち尽くす

   みしらぬ土地では
   幻影でしかないぼくら
   異郷の街道で見うしなった 自分の顔に
   ふとすれ違う
   仰天の、脚半(ずっこけるともいう、

   軽井沢
   軽くて重い足取りで
   史実の小石に躓きながら
   虚構を見すかす 風土のまなざしを渡る者への
   底知れぬ包容力の抱擁に
   甘えていたか、

   「もういちど読みなおしてみてはどうか」
   みしらぬ声に誘われるまま
   古書店の 静謐な水で
   血ばしった目をあらっていた

 舞台は「軽井沢」。「みしらぬ土地では/幻影でしかないぼくら」。そこに「まぼろしの」「父が!」。こういう設定ですと小説仕立てのようになってしまいますが、そこはきちんと押えてあります。まず「もういちど聞きなおしてみたらどうか」と「もういちど読みなおしてみてはどうか」という二つのフレーズが効いていますね。作品の2本の柱でしょう。トリガーと言ってもいいかもしれません。そして「出端の、虫取り(デッバグともいう、」と「仰天の、脚半(ずっこけるともいう、」の二つのフレーズも効果的です。一見、散文と見間違いそうですが、計算された言葉だと思います。それらに「抱擁」されているのだと私は読み取りました。

 最終連も見事です。「古書店の 静謐な水」という言葉が魅力的で、ここから作品の最初へもう一度戻ることができました。時間も空間も区切りなく、心を解き放って読む作品と言えましょう。
 蛇足:「犀生」は犀星≠フ誤植として読みました。



  個人誌『水の呪文』39号
    mizu no jyumon 39    
 
 
 
 
2003.6.15
群馬県北群馬郡榛東村
富沢智氏 発行
400円
 

    閑古鳥    富沢 智

   まあ こういう日もあると
   穏やかに戸締りができるのも三日
   四日日の三時過ぎまでひっそりと
   お客さんの来る気配もないとなれば
   もう腰が落ち着きません

   急に冷え込んだ陽気のせいか
   はたまた悪い噂でも駆け抜けたか
   もしやあの一件が
   などと
   考え始めてしまうのですね

   すると
   窓の外の本格らしが
   お店の窓をびゅるびゅるとこじ開けて
   土足で踏み込んでくるみたいで
   それはもう茫々たる風景

   こういうときは
   売り物のビール一本
   ぐいと飲んじゃう
   榛名に沈む夕日を眺めながら
   さて どうしたものやら
   ふと見ると よくある馬鹿らしさが
   そのあたりにゴミくずみたいに
   ちらかってるだけなのだった

   幸せってやつは
   ほんとにどうにもならないなあ
   うっとりとうらぶれて
   昼から酔うておる
   閑古鳥と戯れておる

 ご存知の方も多いと思いますが、富沢さんは脱サラして群馬県榛東村で「榛名まほろば」という喫茶店を開いています。「現代詩資料館」と銘打った図書室も併設したお店です。寄贈された詩書は2万を越えているのではないでしょうか。1997年の開設だと思いましたから、もう6年になるんですね。私も開設の初日から年に一度程度ですがお邪魔しています。

 そんな「榛名まほろば」に「閑古鳥」が鳴いているという作品ですけど、まあ、しょうがないですね。ご本人もしょうがないと思って、あっけらかんと作品にしたのでしょう。一まほろばファンとしては、年に一度を二度三度にする手立てを考えるか、ということぐらいしか思いつきません。一度が三度になってもたいして寄与しないのは判っていますから、そこはまあ、精神的な応援しかできないと思うしかありません。(結構、オレって冷たいな(^^; )

 この文章は8月30日に書いています。9月に何人かで訪問する予定です。「閑古鳥」を見てドンチャン騒ぎをやろうかな、、、って、作品の感想になっていないなぁ。富沢さん、ゴメン。



  詩誌『饗宴』36号
    kyouen 36    
 
 
 
 
2003.7.1
札幌市中央区
林檎屋・瀬戸正昭氏 発行
500円
 

    季節に架かる橋U    村田 譲

   干上がり現われた湖底の
   割れた春の大地で根をはり
   陽をあびながら立ちのびる
   草ぐさのそよぎの中で、
   空にむかい
   咲き誇るアーチ橋は、また
   すこしやせていく

   鉄骨に頼ることのない時代の
   コンクリの固まりを、
   橋脚を
   突風のいたずらが
   けずっていく
   砂の屑は
   すぎさる季節への返礼として
   降りつづける

   下流のダムから次第に
   水位はおしあがってくるだろう
   ざわめきは
   糠平湖を取り囲む木々たちの
   かつてここに林立していた
   白樺たちの墓標
   打ち倒されたままに凍結している切り株が
   みつめている
   タウシュベツの忘れ物

   ふたたび
   水が夏を埋めるまで
   風の鳴子が響きわたるまで
   七月に
   立ち尽くす

     タウシュベツ……アイヌ語で樺の木の多い川の意味。旧士幌線の
     コンクリートアーチ橋梁群のひとつであるタウシュベツ橋梁は、
     ダムの水位により出現する時期が限られている。

 注釈で意味が判りました。注釈を読む前も雰囲気は伝わってきたのですが、注釈でイメージがパーッと広がりましたね。そう思って改めてタイトルを見ると「季節に架かる橋」! まさに「
出現する時期が限られている」橋なんですね。「タウシュベツの忘れ物」というフレーズもいい言葉です。機会があったら見てみたい、そんな衝動に駆られた作品です。

 詩作品ではないんですが、瀬戸正昭氏のエッセイ「安田侃を見る」にいい言葉を発見しました。安田侃という彫刻家の作品展を見ての感想にしかし「模倣するものは」は「模倣されるもの」よりいつも小さい。藝術より、自然の凄みの方が、よほど大きいのである≠ニありました。模倣≠フ限界を示した言葉だと思います。



  詩誌『孔雀船』62号
    kujyakusen 62    
 
 
 
 
2003.7.10
東京都国分寺市
孔雀船詩社・望月苑巳氏 発行
700円
 

    パーティーには行かれない    望月苑巳

   今朝、ルナがいなくなった
   だから、パーティーには行かれない
   そう電話で伝えた。

   「会社に遅刻するわよ」と
   妻に揺り起こされる。
   台所から味噌汁の匂いがして
   子供のむずがる声がして
   ルナが足元にミャーとまとわりついて
   そんな、ごく普通の朝を迎えたいと思うことが
   どんなに幸せなことだったか
   いつかあなたに話そうと思う。

   平凡な日常でさえも
   明日という「代わり」は用意されてはいないのです
   命の代わりが無いと同じように
   だから、パーティーには行かれない。

   いままでの人生で一番幸せだと思ったのは何ですか
   外国旅行をしたこと
   家を建てたこと
   それとも、子供が産まれたこと
   いや、そんな即物主義者じゃありません
   赤ちゃんが、初めて手を握り返してきたこと
   その子が誕生日にマフラーをくれたこと
   そして、そう答えられることこそが一番の幸せなのだと
   あなたに答えよう。

   物語の終わりを人生のページに書き込むのは
   そんな後のこと
   負けず嫌いなわたしは
   その夜、雪明かりの道で
   家族思いの
   ホタルになったのです
   季節の岬で。

 「パーティーには行かれない」理由は「ルナがいなくなった」こと。「いままでの人生で一番幸せだと思ったのは」「赤ちゃんが、初めて手を握り返してきたこと/その子が誕生日にマフラーをくれたこと」。そう素直に読んできて、最終連でおや?と思いました。「物語の終わりを人生のページに書き込む」「家族思いの/ホタルになったのです」というフレーズからは死を連想させます。「幸せ」の裏にある言い知れぬ闇の部分を描いているのかもしれません。あるいは「季節の岬で」とありますから、単なる精神的な区切りとも読めます。

 「パーティーには行かれない」ことと「一番の幸せ」のギャップをこそ読み取るべき作品なのかもしれません。そこは読者の読み方に任されていると考えてもいいのでしょう。「明日という『代わり』は用意されてはいない」というフレーズにも注目しています。表現されている言葉はやさしいけど、奥の深い作品だと思います。何度か読み返して、もう少し消化しなければとおそらく作者の真意には迫れないでしょうね。読みの力不足を感じます。




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