きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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「クモガクレ」 |
Calumia
godeffroyi |
カワアナゴ科 |
2003.7.10(木)
特になし。一緒に働いている女性が午後から休暇をとったので、ちょっと忙しかったことぐらいですかね。早めに帰宅して読書三昧の初夏の夜、というところでした。
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2003.7.1 |
大阪府豊中市 |
ぎんなんの会・島田陽子氏
発行 |
400円 |
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地上70cmのスイカたち 河野幹雄
今年の冬休み、家族そろって母さんの実家のある高知県南国市へ行きました。
じいじも ばあばも喜んで、二人が前に働いていた「西沢園芸団地」を案内してく
れました。そこは、甲子園球場の2倍もある土地で、はば45m・長さ70m ぼくの
小学校の校庭ほどの大きなビニルハウスが 12棟もならんでいました。
案内されたスイカ・ハウスでの説明。
「ここでは、10日ずつずらして種をまき、それぞれ90日後にはしゅうかくしていま
す。以前は坪当たり二本で何個も実らせていましたが、今では坪当たり六本にし
て、一本につき本葉14枚日のめ花一つだけを実らせます。」
小学校の先生をしている父さんのしつ問。
「どうして14枚日のめ花だけ育てるのですか。ほかの所の花はどうなりますか。」
その返事。
「スイカもメロンも、上のパイプからつるしてさいばいしますが、同じ高さに実が
そろうと、しゆうかくするときに便利ですしつかれないのです。ほかの所にでき
た実は、奈良づけ・かすづけ用に、少し育ててからつみ取ります。」
次のハウスで、一年生の妹の頭ほどの実のうねも、父さんの頭ほどの実のうねも、
みんな地上70cmぐらいの所に並んでいて、見事というより不気味でした。
思わず父さんの手をにぎったら、どういう意味かわからないけど、
「なんか今の学校みたいやな」
と小さくつぶやいたのが、今でも耳に残っています。
私の家の裏には小さな畑があって、今はおばあさんがトマトやスイカを趣味で栽培していますが、以前は20本ほどの蜜柑畑でした。高いところの実は脚立によじ登って採らなければなりませんでした。確かに「同じ高さに実が/そろうと、しゆうかくするときに便利ですしつかれないのです」。そうやって人間はいろいろと工夫をしてきたのですけど、「見事というより不気味」に見えるんでしょうね。それが「なんか今の学校みたいやな」とするところがこの作品の持ち味だと思います。そう言っているのが「小学校の先生」だという設定は、これはこれで説得力があると言えましょう。現場の先生には是非そう感じてほしいものですね。
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2003.7.1 |
宮崎県東諸郡高岡町 |
本多企画・本多
寿氏 発行 |
500円 |
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理屈っぽい山仕事 藤見紀雄
七月は下草刈りの季節
朝 ふもとから刈り始めて
杉の植え込みから
檜の植え込みに変わる辺りまで
上がって来る頃には
もう午後の三時を回っている
この辺まで登ると
見晴らしの良い場所もあって
一息入れることにしている
腰を下ろして
後ろのそれほど急ではない斜面に
そのまゝ仰向けになって寝転がり
梢の間から空を見上げる
梢の間を流れる雲は
地球を自転させている動力ででもあるかのように
一定の速さを保って少しの狂いもない
論理を「理屈」と呼んで嫌う人間が少なくはないけれど
自然というものは実に論理的な存在である
学問とは思考の過程をマニュアル化することによって
論理を省略してしまったパック商品のようなものらしい
ボクが原初的な感覚によって学問に疑問を感じた時
ボクはまだ「原初的な感覚」という言葉を知らなかった
しかし「学問」と呼ばれる話を通して提示される情報と
ボクの非学問的な感覚によって知覚した情報の間には
黙認することの出来ないほどの差異があった
こうして「学問」と呼ばれて提示されている情報に
疑問をもったのは中学生の時だった
三千年以上もの間を継承されてきた学問は正しいのか
公式的なマニュアルを含む学識は人間を幸福にするか
学問が組み立てられる前の原初の感覚を取り戻せるか
親の意に抗し切れず高校へは通ったが勉強しなかった
大学の入試はいつも白紙で出したから親たちも諦めた
「学問」と呼ばれるような情報とは縁を切って五十年
学問に背を向けて探したのは原初的な感覚であったが
その概念は頭の中に存っても呼び名が見付からない
中学校を卒業するかしないうちに
学問どころか普通の勉強まで放り捨てゝしまって
言葉を覚え損なった
言葉を知らないって随分と不自由だね
概念の方は次々と浮かんでも
それをどう呼んだらいゝのかさっぱり分からない
ボクは思った
こりゃァ学校と反対だァ
学校では先に言葉の名辞を教えて
その後で言葉の意味や概念や定義などを教える
ボクの方は概念ばかりが頭の中で渦を巻いて
その概念の呼び名がなかなか見付からない
学問に背を向ければ非学問的な世界において
学問に代わる「知」を必要とする
まずは自分で考えること 土台もなしに
いやッ 中学生の始め頃までの知識を土台にして
それでもなんにもなしよりは力になる
少なくとも新聞が読めるだけでも大変なことだ
しかし新聞を読むと
学問への疑問はますます確実なものになる
政治と学問の関係を注視して想えば学問は有害である
原初的な感覚による太古の政治では倫理に従っていた
人々に秩序を強制するための学問によるマニュアルは
人々を自然の摂理に含まれている倫理から引き離した
マニュアルを強制するには論理の必要はない
何事も「秩序」という名目で画一性の原理と序列の原理
これを解き放つのは原初的な感覚によって生成された
多様性の原理と対等の原理の他はないであろう
最初に必要なことは講演型のコミュニケーションから
対話型のコミュニケーションヘと切り換えることだが
詩人なんていう人種には難しいことかもしれないな
なんて具合に頭の中に理屈を並べている裡に
もう陽が西に傾き始めていた
ぼつぼつ山をおりようか
ちょっと長い作品ですが全行を引用しました。山仕事をしながら「頭の中に理屈を並べ」るというのは、意外に合っているように思います。私には山仕事の経験はほとんど無いんですが、なぜか「理屈」を考えるのは山ですね。もう20年も前のことになりますが、生きる意味が判らなくなって、他人との接触が嫌になったとき山に2年間籠りました。会社勤めだけはきちんと果たして、箱根外輪山にある開拓部落の空家を借りて考え続けました。キーワードは作者と同じ「学問」です。学問って何だろう、なぜ学問があるんだろうと考えたのです。その中で、頭の中にある概念を体系づけたのが学問という一般論に落ち着いたのですが、ひとつ大きな発見がありました。人間に関係しない学問はひとつもない、ということです。それに気づいて他人との接触の嫌悪感が薄れて、山を降りました。
作品の中での学問に対する考え方は、それはそれでひとつの見識だろうと思います。私は化学会社の技術屋ですから、いわゆる学問には助けられています。先人の理論を繰り返す必要はないので、それを正しいとして次の理論に臨むことができます。もちろん完璧な学問など存在せず、100%は信用しません。ある条件のもとで、という前提が付くのが科学技術の世界ですから当然のことです。逆にその条件さえ満たしてやれば何度繰り返しても同じ結論が出るという安心感は絶大なものですけどね。その見事さの虜になって初めて、「概念の呼び名」が理解できるのだろうと思います。
でも、なぜ山なんだろうと考えます。海の仕事、例えば舟に乗っている場合は常に状況が変化しますから、それへの対応で「頭の中に理屈を並べている」暇なんてないのかもしれませんね。浜の仕事は状況変化は乏しいけど、母なる海への安心感があって理屈なんかどうだってよくなるのかな、とも思います。そう考えるとやはり山かな? 「下草刈り」で草刈機のエンジン音を聴きながら汗を流す。そんな時にこそ頭の中はフル回転できるのかもしれません。現代詩≠ェ忘れている世界を描いた作品として好感を持って読みました。
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2003.7.5 |
東京都豊島区 |
東京文芸館刊 |
非売品 |
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美しい鳥「ケツァル」
地球上にもっとも美しい鳥といわれる
「ケツァル」は中米に生息している
ある種のアボガドの実を丸ごと食べる
いったん胃の中に入れると
大きな種だけ吐き出すことが出来るそうだ
アボガドの種は胃液に刺激され
発芽しているといわれている
そんな「共生的進化」は
いま盛んに研究が進んでいるという
相手を倒して生き残る
「競争的進化」ではなくて
この鳥のアボガドの種子のように
生き残って行く知恵は好ましい
熱帯林の世界ならばなお更に
「共生的進化」の例は多いことだろう
特定の種が増えすぎるのを防ぎ
熱帯林にもいま地球温暖化の影響が
起っているのをふせがねばならないと
年輪がふえると成長が緩やかになる樹木が
どんどん大きく肥りすぎて行く
成長が止まらない成人病に似ている
この異変はやはり二酸化炭素の
多過ぎるせいではないかと言われている
熱帯林での保護活動は
特に南米あたりが盛んであるそうだ
美しい「ケツァル」のおかげで
アボガドが増えていくのは
嬉しいことにちがいない
三部構成の詩集で、紹介した作品は「V
旅」の冒頭にありました。第2連の「共生的進化」という言葉に着目しました。「相手を倒して生き残る」ことに疲れてきていますので、この言葉は魅力的です。人間の世界では無理なことなんでしょうけどね。「樹木」の「年輪がふえると成長が緩やかになる」という最終連のフリーズもいいですね。ここではそれが「どんどん大きく肥りすぎて行く」ことを問題視しているわけですが、本来ならそうではないということを言っているわけですから、そんな「樹木」の本来の姿に憧れます。
旅をしても、そこはやはり詩人、こんな作品を書けるとは素晴らしい。詩人の面目躍如と言えるでしょう。
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2003.7.15 |
東京都中野区 |
菊田 守氏 発行 |
340円 |
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けさの雀 菊田
守
けさ庭に一羽でやってきた雀が
居間のガラス戸の向こう
金魚の水槽の傍らから
濡れ縁の近くまでやってきて
何か言いたそうに
こちらを見つめている
生きていることが
当たり前のように思われる日々は
なにごともなく過ぎてゆくのに
しみじみと生きていると感じるときは
こころに語りかけてくるものがある
――あの雀、いつもの雀と違うね
私の内部で母の声がする
そう、この雀はどこか違うのだ
雀の目と私の目が合ったとき
一瞬、死の予感がした
雀はなぜか安心したように
さっと空へと飛び立っていった
けさの雀は尋常ではなかった
きっと
最後の別れにやってきたのだろう
昼間、草原で
光浴びをする雀たちを見ると
つい涙ぐんでしまう
一羽でやってきたけさの雀が
いじらしく、愛(いと)おしい
雀は雀でも、詩人の眼にかかると違ってくるんですね。「きっと/最後の別れにやってきたのだろう」と雀を見る眼は敏感そのものです。だから「つい涙ぐんでしまう」のですが、その伏線は第2連にあります。第2連をいつも感覚として持っているからこそ「この雀はどこか違うのだ」と思えるのでしょう。小さな「けさの雀」に対してさえ詩人の感情は豊かに反応する、それをまざまざと見せてくれた作品だと思いました。
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