きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

  kumogakure  
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科

2003.7.12(土)

 日本詩人クラブの7月例会に行ってきました。今回は新会長・新理事長の講演が主でしたが、まあまあだったかな。新会長は気取りがなく俗な面まで見せてくれて、新理事長はかなり難しい話でしたから基礎知識が必要。好対照と言えるかもしれませんね。

    030712

 写真は赤木三郎さんのスピーチ。こちらは演劇のプロですから話も判り易くおもしろかったですよ。人前に立って話をするとはどういうことか考えさせられた例会でした。
 二次会はパス。気の合った仲間とゆっくり呑みました。



  詩誌『ハガキ詩集』217号
    post poems 217    
 
 
 
 
2003.7.10
埼玉県所沢市
ポスト・ポエムの会 伊藤雄一郎氏 発行
非売品
 

    うそ寒い風が吹いている…    伊藤雄一郎

   うそ寒い風が吹いている
   十代の少年・少女たちの心の中を

    ある大手新聞社のアンケートによると
    彼らの多くは日本の未来は暗いと答えているという
    希望溢れる年頃なのに
    なんの明るい展望も見出せないという

    『ぼくらの未来は既に予見された未来
    わたしたちには今目の前にあることもすべて「デ・ジャブ」
    選択したくても選択する楽しみがない
    だから、ぼくらもわたしたちもココロ淋しく満たされない』

   うそ寒い風が吹いている
   三十代の若者たちの心の中を

    かれらは男女ともシングルが多く
    結婚せず・しない主義を貫くともなく貫き
    いつしか社会的にも侮れない存在となり
    未来の日本に暗い影を落としている

    『僕らは結婚しなくても別に後指さされることはない
    わたしたちにとって結婚だけが人生じゃないわ
    結婚してもしなくてもそれは自由
    それがわたしたちの生き方だけどココロ満たされない』

   うそ寒い風が吹いている
   ミドルと言われる世代の心の中を

    かれらの多くは企業の中心戦力で
    働き盛りだが今ひとつ顔色が冴えない
    それもその筈いつ業績が悪化して
    リストラや倒産の波に呑み込まれるかも知れないからだ

    『俺たちは家族を養い家のローンを払い
    会社を支え年金を支え
    精一杯やっているのに報われない
    ココロはいつも虚しい酒で満たされている』

   うそ寒い風が吹いている
   シニアと呼ばれる年代の人たちの心の中を

    高齢化時代を迎えて
    ますます増え続けるシニアたち
    現在六十五歳以上のシェアは十八%に過ぎないが
    二十年後には三人がそうなるという

    『われわれは戦後とそれに続く高度成長時代を
    がむしゃらに働いてきた 明るい希望に燃えて
    今日こんなに暗い時代になるとは夢にも思わなかった
    亡国の兆しさえ見えてココロ満たされない』

   うそ寒い風が吹いている
   多くの日本人たちの心の中を

    二十一世紀も三年目に入り
    物質的な豊かさとは裏腹に
    ますますココロ貧しくなってゆく日本人
    閉塞感を抱きながら明るい未来を見出せないでいる

    日本を背負う少年・少女たちも
    次代を担う三十代の若者たちも
    現在の日本を支えているミドルたちも
    そしてシニアたちも皆一様に感じている

   日本中を
   うそ寒い風が吹いていると

 ちょっと長かったのですが全行を引用してみました。私はこの作品の中では「ミドルと言われる世代」になりますけど、まさに書かれている通りです。「リストラや倒産」の心配は今のところ無いと思っていますが、「年金を支え」てきたのに、自分たちの世代は5年の据置のようなのが心配の種です。60歳で定年になっても、貰えるのは65歳。これって変だよね、というのが仲間うちのもっぱらの話題です。どうやって5年間食っていけばいいんだろう。

 「日本中を/うそ寒い風が吹いている」んですが、仲間うちでの話の結論に私はいつも言います、だって俺たちが選んだ政府だからしょうがないジャン=Bそしてもうひとつつけ加えます、俺は選んでないけど=Bさらに言いたいことがありますけど、これは黙っています、労働組合を骨抜きにしたのも、野党らしい野党を育てなかったのも、企業の不正に眼を瞑ってきたのもみんな俺たちじゃないか=B根は深いということを考えさせられた作品です。



  詩誌『ぼん』38号
    bon 38    
 
 
 
 
2003.7.30
東京都葛飾区
池澤秀和氏 発行
非売品
 

    線引き    池澤秀和

   夜明けとともに太陽があるから
   温暖を運ぶのは陽光だと錯覚して
   自転する地球を忘れることがある

   季節はいつも 入り組みながらやってくるので
   大地の深さを計り 辿りながら
   労働に汗を流すのだが
   ひとの暮らしや農耕は それでも
   飢餓や豊饒や貧困がやってくる

   体感温度より早めに
   立春・立夏・立秋と定めて
   ひとつ ひとつ 時期を区切ったのは
   その先に未来をつないだからだろうか

   生の一片に受けるひかりを
   ひとつひとつ丹念に
   根気よく汗を流して
   次の季節を呼び込み
   少し先の収穫を実りあるものにしようと
   人間らしい喜びを保つことを
   期待 と 呼んだのだろうか

   真夏日に草の根や土壌までも
   萎えることはないはずだが
   いま
   あてにして待つ≠アえが目だち
   風になびく旗が見えない≠ニ
   声高にきこえてきて
   自転する大地を忘れかけるときがある
                     03・6・10

 第3連がおもしろいと思いました。「体感温度より早めに」「時期を区切ったのは」旧暦から新暦への切替えの結果に過ぎないのですが、それを「その先に未来をつないだから」とするのは、納得できるものがあります。こういう解釈が詩には必要で、詩でしか出来ない部分だと思っています。ここではイラク戦争を念頭に置いて作品化していますが、その本性は「自転する地球を忘れ」たためだとする点も素晴らしい発想だと思いますね。詩的な捉え方とは何か、それを見せてくれた作品だと思いました。



  アンソロジー『栃木県現代詩年鑑』2003
    tochigiken gendaishi nenkan 2003    
 
 
 
 
2003.6.19
栃木県宇都宮市
栃木県現代詩人会・小林猛雄氏 発行
2000円
 

    漁夫が綱を投ずる時    岡崎清一郎

   漁夫が網を投ずる時
   すこしいぢわるくかんがえる。
   なさけぶかきひとにさかながとれるか。
   漁夫はずるずると網をひきだす
   たわいのないものはねらわず
   大物の駈け込むをまッていた。
   さかなはあをいいろにきらめく。
   らんぷの炎のよなやつ。
   どてッぱらをにょきにょきうごかし
   陸離としてうつくしい。
   漁夫が網を投ずる時。
   金色のさかな大往生遂
(ト)げる。
   馬から飛びおり見物にくる人もある程
   どッさりとれた。
   くもッたあたりはまた日がてりだし
   空行くかぜも涼しいぞ。
   漁夫が綱を投ずる時。
   仰々しいいでたちで
   漁夫が網を投ずる時
   深いはかりごとにのせられたと
   気がついたとき
   さかな共ははらをたて目玉をくりくりさせ
   はをむきだし声を立てはげしく感動する。
   並居る群集やんやとよろこび
   しかし果してかかるさかなのうらみの霊魂
   あるかとかんがえおよぶ時
   生あるものをきのどくにかんがえ
   憂はし気に一同家路に向う。
   あああさかなの亡魂にあたりは暗く
   水中に堕ちて
   燃え上るさかなのうからやから。
   漁夫が網を投ずる時。
   あたりはひッそりでいでおろぎいもない野に
   日は落つ。
   人等あいよりかたらいけうとゆうけうこそ
   およぎながれ行くものに魅せられる。
   漁夫めが網を投ずる時。
   さかなわんわんなきだす時。
   さかなのいちもんほろぶ時。
                      * 岡崎清一郎(一九〇〇〜一九八六)
                       本会初代会長
                      『栃木県現代詩人選集』一九六九年版
                      (本会初選集)より再掲

 「あとがき」では初めての試みとして初代会長の作品を巻頭に載せた、とありました。「懐かしむべし、学ぶべし」と念じているとも書かれています。今から35年ほど前の作品と思われますが、金子みすゞを彷彿とさせる作品ですね。でも、当時は今ほどみすゞブームは起きていなかったと記憶していますから、まったくのオリジナルと考えてよいでしょう。

 有名なみすゞの「大漁」(だったかな?)に比べると、迫力の違いを感じます。「なさけぶかきひとにさかながとれるか」「さかなのうらみの霊魂/あるか」などはみすゞには無い部分です。「漁夫」が最後には「漁夫め」に変るところも注目すべきでしょう。
 こんな優れた作品を遺した詩人を初代会長に据えた、栃木県現代詩人会の見識の高さに敬服した次第です。



  勝野郁子氏詩集『どこ』
    doko    
 
 
 
 
2003.7.15
東京都千代田区
花神社刊
1800円+税
 

    ――漢字の――

   確実に
   終わりにくいものに
   冠さってくる
   あな(穴)かんむりの
   空
   宝冠の垂れ飾り
   雨滴 おびただしく
   したたり 流れ
   懸崖のはて
   エ っと
   とびたっていく鳥に
   う(憂)かんむりではなかったの?
   ときくと
   ウ、ハ、と
   ひろがっていく
   青

 詩は理解≠キるものではなく感じ取る≠烽フで良いのかもしれませんが、感じ取るためにも多少の理解力は必要だと思っています。その理解力とは読者の経験であったり知識であったりするのですが、それこそ人様々で一様には考えられません。そんな思いで詩集を拝見すると、この詩人は並外れた知識、場合によっては経験を持っているのではないかと感じました。要するに私如きでは追い着けない詩群ばかりだということです。難しい!

 そんな中でも多少は食い下がれるかなと思ったのが紹介した作品です。もちろんこの作品でさえ全行、行間の全てを理解≠オたとは思っていません。辛うじて前半が判る≠ゥなという程度です。「宝冠の垂れ飾り」というフレーズに刺激されて宝冠を探してみましたが、私の手持ちの辞書にはそもそも宝冠なんて無い! それはそういう理屈で捉えてはいけない作品なんですね。もう少し勉強して解釈≠オてみます。HPをご覧の皆様はどんな風にお感じになっているか、興味のあるところです。



  詩誌『燦α』22号
    san alpha 22    
 
 
 
 
2003.8.16
埼玉県さいたま市
燦詩文会・二瓶 徹氏 発行
非売品
 

    鳥への歌(二)    坂尻晃毅

   それでもやはり
   空というその場所に
   行ってみたいと願わずにはいられない

   たとえば
   ビルの屋上から花曇りの空を見上げるとき
   私は 広大な翼を待った鮮やかな色の鳥となる

   私の翼は
   あらゆる制約から限りなく由由で
   灰色にくすむ街を
   小さな人々を見下ろしながら
   どこまでも
   自由だ

   疲れを知らない私の翼は
   曇り空に原色のコントラストを残しつつ
   ときに地上すれすれに ときに雲よりも高く
   ときに背中を押してくれる穏やかな風に身を任せ
   人間界と
   矢上界の間を
   いとも軽やかに行き来する

   都市を抜け 森をくぐり 山脈を越え 海を渡り…
   この世のすべてを見届けた私は

   風そのものとなって

   雲を破り 空を破り 空気を破り

     自分を破り

   無限を捜し求める 終わりない旅に出る

     * * *

   私は鳥 そして私はヒト
   小惑星の 生物進化の一過程
   歩く 歩く 歩くのだ

   空は自由か
   そこに苦しみはないか
   などと
   頭上を舞うおまえたちに問いかけながら

 「私は鳥 そして私はヒト」という規定のし方がおもしろいと思います。鳥に憧れた詩、鳥と対比した人間の小ささ、それらを区別して書く人は多いんですが、鳥でありヒトであると規定した作品は少ないんではないでしょうか。

 現実的な話で申し訳ない、実際に「広大な翼を待っ」て遊んだ身としては「空は自由」ではないと言いたいですね。下降気流の中ではプロの鳥も飛びません。ですから下降気流である「背中を押してくれる穏やかな風に身を任せ」ることはありません。上昇気流か無風でしか「自由」はないのです。やはり「歩く 歩く 歩く」方が自由度は高いと言えるかもしれません。




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