きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

  kumogakure  
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科

2003.7.16(水)

 昨日に引き続いて今日も出張。とても仕事が回らないので、朝5時に出勤して片付けました。その後10時に出掛けて、都内ですけど2社を回って、最後の会議が終ったのが19時半。それから呑み会に付き合って帰宅したら零時近かったですね。一度の出張で2社で会議ほするというのは本当にシンドイです。まあ、効率が良かったと言えばそうも言えるんですけど(^^; これが金曜日なら良かったんですけどね。



  水崎野里子氏詩集『アジアの風』
    the asian wind    
 
 
 
 
2003.7.20
東京都新宿区
土曜美術社出版販売刊
2000円+税
 

    アジアの風

   アジアは褐色だった
   貧しかった
   そして猥雑だった
   娼婦たち
   マンホール・チルドレン
   父母に棄てられた
   逃げ出した
   父母のいない子供達が冬
   マンホールに住む
   地下は暖かい
   食べ物は盗むか
   拾って来る
   ストリート・チルドレン
   色の黒い子供達が
   手を出して
   物品をせびる
   学校に行かない子供
   子供を殴る父母
   レイプされて生まれた子供たち
   もちろん 父親はとうの昔に逃走
   夜 喧噪の音楽の中
   裸で踊る少女たち
   途中から ヒモのようなブラジャーと
   これもかろうじて覆っている下ばきを取る
   もちろん 初めからない場合もある
   でも 彼女たちの踊りは見事
   どれもすこぶる付きの美人
   すらりとした身体
   その後一晩で五十ドルの収入
   平均月収入百ドルのこの国で
   大草原の中 ゲルに一人で住む女たち
   遊牧民族 羊を育て
   馬の乳を搾る
   乳製品を作って食べる
   家族の男は町に行ってしまった
   彼女を棄てて
   時々 通りがかりの男が
   彼女をレイプして去る
   出来た子供は 恐らくたった一人で生む

   でも モンゴルの歌は甘く哀愁を帯びていた
   馬頭琴のメロディ
   琴 蛇皮線
   若者たちの勇壮でリズミカルなモンゴルの踊り
   その中の一人はなかなかの美男
   太陽の下での モンゴル相撲
   陽気で実にエネルギッシュ
   笑いと拍手の渦
   モンゴル服を着た目の細いおばさんと並んで
   カメラでワン・ショット

   アジアは褐色だった
   でも とても広大だった
   限りなく拡がるモンゴルの平原
   想像を絶する
   大空と大気と平原と太陽と
   褐色の人々
   彼ら今でも騎馬民族の子孫
   馬に乗ると
   王様のように威風堂々
   背筋をしゃんと伸ばし
   手綱を巧みに繰り
   平原を意気揚々と馬で疾走
   馬上のサーカス
   馬を曳く少年の澄んだ目
   モンゴルの青空が映る
   彼らジンギス・カンの子孫
   集団で馬を駆る 平原の彼方に
   蘇る 今 彼ら騎馬民族の
   世界征服の夢

   私は十二歳のモンゴルの少女
   これから競馬に参加する
   ゼッケンを付け
   大平原を馬で競争するレース
   だいたい 早くても出発から二時間
   ゴールまで
   参加者多数 褐色の子供たち
   私のゼッケンは六十九番
   スタート!

   行け! あぶみで馬の脇腹を思い切り蹴る
   手綱を右手で掲げ
   私は走る
   私の馬と
   ひたすら前へ
   限りなく前へ
   私は馬と一体となる
   私は馬
   馬は私
   両足で馬の脇腹を蹴り続ける
   手綱を握り締め掲げ
   上半身は馬のスピードと平行線
   限りない疾走とスピードの中
   平原は限りなく後方へ飛び去る
   私はスピード
   私は疾走
   私は平原
   私は山々
   私は太陽
   私は地平線
   私は自由
   私は褐色
   私は褐色のモンゴル平原の
   褐色の娘
   野性の娘
   私は自由
   疾走する馬のように自由
   私は自然
   飛び去る大地のように自然
   遥か彼方のゴールを目指し
   ひたすら前へと進むだけ
   走ることだけしか考えない
   私は野性のアジアの娘
   褐色のアジア

   私はアジアの風となる

 詩集のタイトルポエムで、巻頭詩でもあります。ちょっと長かったのですが全行を引用してみました。この詩集の特徴を良く現していると思います。あとがきには日本の、そしてアジアの「貧しさ」と「豊饒さ」とを、共に生き、詩に表現≠オたい旨が書かれています。その意図を端的に表現した作品と言って良いでしょう。

 なぜ「アジア」なのかはあとがきで詳しく述べられていますが、ここでは再掲しません。実際にこの詩集を手にとって見て欲しいという思いと、日本はアジアなのか欧米なのかを考えれば答は出ると思うからです。英米文学者の著者がなぜアジアなのか、それも考えなければいけない視点でしょうね。戦後、1990年代近くまで続いた欧米指向が軌道修正されつつある、そんな実感を持って味わえる詩集の出現です。




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