きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

  kumogakure  
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科

2003.8.1(金)

 7月下旬に定年退職した人がいました。その昔は私の部下として働いてくれた人です。彼は会社が主催する祝賀会を一切断っていました。最近の定年退職者には、会社が主催する祝賀会を受けるか受けないか決める権利が与えられていて、彼は後者を選んでいました。それはそれでひとつの見識で、彼ならそうするだろうと私は読んでいましたから、もちろん非難する気などありませんでした。でも、彼にごく親しい人、数人のお祝いの会なら来てくれるかな? それをぶつけてみましたら、喜んで、という答が返ってきました。で、今日はそのお祝いの会ということだったのです。

    030801

 集まったのは彼を含めて6名。本当に気の合った人ばかりです。18時から始まって午前3時まで、よく呑んだなぁと思うほどです。写真は一次会でのスナップ。左の男性が件のS氏です。右の女性は呑み屋のママさん、ではありません、れっきとした弊社社員(^^; 気持のやさしい女性でS氏とは20年来の知合い、私もこの1年ほどS氏を介してお近づきになりました。

 S氏は本当はあまりお酒が呑めないんですが、それでもビール1本ぐらいは呑んだでしょうか。喜んでくれました。帰りのタクシーの中でも朴訥に礼を述べられて、こちらが恐縮してしまいました。100人も200人も集まる祝賀会もいいけど、たった6人の会も捨てたものではありません。定年退職者とは定年を機に縁が切れやすいものですけど、S氏とは何度か呑みに出掛けることになるかもしれません。いい会でした。



  文芸誌『蠻』134号
    ban 134    
 
 
 
 
2003.7.31
埼玉県所沢市
秦 健一郎氏 発行
非売品
 

    じゅくしゅん
    熟 春    山浦正嗣

   窓辺の光をたよりに
   色あせた糸をたぐりよせています
   すり切れた悲しみなんかがもつれて
   貧しい時間が過ぎていきました

   使いきった若さが
   秋色に熟れる頃
   糸が切れないように
   二重にしてつないでいます

   雪に閉ざされる冬の前に
   体の中で血は青く
   波打っていました

   たいした話ではありませんが
   木枯らしのなかで
   焚き火をしているようなものです

   遠い記憶のなかの炎が
   目の前に昇ってきて
   線香の火ほどの未練ですが
   風が吹くと
   顔を照らすほどに
   燃えてしまうのです

   群れから放たれた獣のように
   奪われた夢の向こうへ
   駆けていきます

   いい歳をして と
   いわれるでしょうが
   ここから始まる物語もあるのです

 タイトルの「熟春」は熟年≠ゥら派生した作者の造語のようですが、いい言葉ですね。最終連の「ここから始まる物語もあるのです」というフレーズと見事に符合していると思います。「使いきった若さ」という言葉にも惹かれます。私もそろそろ「熟春」に入る年齢と自覚していますので、作者の云わんとしていることは多少なりとも理解できる気でいます。
 恥じらいの中にも強い決意が感じられる作品で、ひとつのジャンルを築いたと言っても過言ではないでしょう。



  詩誌『黒豹』103号
    kurohyo 103    
 
2003.7.30
千葉県館山市
黒豹社・諌川正臣氏 発行
非売品
 

    立ちどまって    西田 繁

   雨がやんだ
   日ぐれには 少しはやいが
   さっとひと風呂あび
   わが家の閾またいで 外にでる

   いっせいに 田圃に蛙の声がばらまかれる中
   行く先は 日課の 近くの居酒屋

   一日二合だよ 医者に駄目をおされて 一年
   いつも 世間がせまくなるなと思いながら
   顔なじみのくる前に 暖簾はらって帰路につく

   路みち 律義者よと自分を嗤う
   もう一杯をふりきって ながらえる命の向うが
   どこにつながっているのか 考えてみる

   吹く風に ひょいと自分の身をのせて
   飄々と生きてみたい気もするが
   所詮 いまのわたしには無理と 立ちどまって虹を眺める

 日常生活の一齣ですが味わい深いものを感じます。「飄々と生きてみたい気もするが/所詮 いまのわたしには無理」というのは、直接的には「一日二合だよ 医者に駄目をおされて 一年」のことだろうと思いますが、もっと深いところでは「ながらえる命の向うが/どこにつながっているのか 考えてみる」に掛かっていると云えるでしょう。現代人の少し憂鬱な気分を表現した佳作と思いました。



  詩誌『現代詩図鑑』8号
    gendaishi zukan 8    
 
 
 
 
2003.8.1
東京都大田区
ダニエル社発行
300円
 

    帳尻    高木 護

   父の酔狂に
   母の頭はこわれた
   わたしは算術で零点をもらった
   喘息にも苦しめられた
   弟は小川のどんぶりで溺れかけたり
   へらくちに咬まれた上に
   黄櫨負けで面が膨れてしまい
   お化けになった
   父も死に
   母も死に
   わたしは日雇い人夫になった
   弟は炭焼きになった
   妹たちもいたけれど
   一緒に暮らすこともなく
   独りずつ消息も絶えた
   それから四十年経った
   ときおり憶いだし
   わたしは家族の帳尻を合わせた

 「四十年経っ」て「家族の帳尻を合わせ」ることの意味を考えています。淡々と書かれていますが、作者の胸の内を思うと日本人としての、人間としての業まで考えざるを得ません。もちろん詩作品ですから実際に起きたかどうかの詮索は意味がありませんけど、近いものがあったと捉えた方が作品に迫りやすいと思っています。その上で「家族の帳尻を合わせ」ることの意味となると、やはり人間の業まで迫らないといけないだろうなと思います。人間としての「帳尻」をどう合わせるか、辛い命題の作品と云えるでしょう。




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