きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

  kumogakure  
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科

2003.8.7(木)

 島根・鳥取旅行から帰ってきました。初めて行ったのですが、何か日本のふるさと≠ニいう印象が残りましたね。出雲大社、鳥取砂丘など、私としては珍しく観光地の定番を観てきました。まあ、あんなもんかな。小泉八雲記念館は参考になりましたね。意外に良かったのが堀川巡り。小さな舟で松江城の堀を巡るという趣向ですが、最近出来たらしく観光客には人気があるようです。機会があったらまた行ってみたい土地ですね。



  金堀則夫氏詩集『かななのほいさ』
    kanana no hoisa    
 
 
 
 
2003.9.9
東京都新宿区
土曜美術社出版販売刊
2000円+税
 

    風解

   山深いところへ
   かんたんに車で入り込んできた
   石切り場
   砕いてきた断崖がまさに崩れようとしている
   目の前に立ちはだかる 聳える岩はだに押しつぶされる
   不可解な気迫が吹きあれている
   これは殺気だ
   これは人間の挑んできた残骸だ
   聞こえない破壊の轟音が
   車から降り立つぼくの足元を転石でぐらつかせる
   恐怖は ぼくを誘ってくる
   ぼくは 恐いのだ
   高さ 深さ 遠さ 大きさの越えたものに
   人間が手をかけるのが
   石を切り裂いてきた年老いた男が
   片目を発破の飛礫に傷つけられている
   岩石と戦ってきた栄光のあとが片目にある
   得意げに岩石を扱ってきたのだ
   いまはもう発破もない 死んだ石切りの残骸だ
   残骸の凶器がぼくに迫ってくる
   恐怖の岩場から逃れなければならない
   巨大な岩はだは 山の苛立ちを
   乾いた線模様で描いている
   残骸のひび割れた線引きは
   水をほしがっている
   一滴の雫が とおい時間に
   この岩石を砕いていく その道をつくっていく
   運命線が 鉄杭を打ち続けている
   吹け 吹け 風が
   降れ 降れ 雨が
   風化していく そんな岩石に強がりを吐きながら
   断崖を見上げる恐怖から救われるため
   ぼくとの距離を保っている

 おもしろい詩集のタイトルですが漢字で書くと「鉄穴の星田」だそうです。「鉄穴」はかなな≠ニ読み、かなあな≠ゥら転じたものと思われます。「星田」はほいさ≠ニ読むそうですが、今は地元の人もそう言わないようです。著者は大阪府交野市星田に在住。古くからの家柄のようで、詩集には「金堀」という珍しい姓に関する作品が多く収録されていました。明治初年の文献には「金堀の里」という地名があったそうですから、江戸時代以前からの家柄かもしれません。

 紹介した詩は、そんな詩集の本筋からはちょっと外れた作品です。著者のお人柄が顕著に現れた作品だと思います。「ぼくは 恐いのだ/高さ 深さ 遠さ 大きさの越えたものに/人間が手をかけるのが」というフレーズにそれを感じます。「高さ 深さ 遠さ 大きさ」を越えることで人類は発展≠オてきましたが、それに対する異議申立ても作品の底にはあるのではないかと思います。居住する地域、ご自分の姓という地点から世界を見ているとも云えましょう。それが実は大きなものの見方につながっている、そんなことを感じさせられた詩集です。



  季刊詩誌『火山彈』63号
    kazandan 63    
 
 
 
 
2003.8.10
岩手県盛岡市
「火山彈」の会・内川吉男氏 発行
700円
 

    夜の重力    佐佐木匡

   通りをたどって行ったが
   不意を突かれて目眩いがした
   その通りがいつもの街路なのか
    <仰せの通り> の通りなのか
   わからなくなってしまったので
   すぐに現れたその辺の角を曲った

   黒い柵の向こう
   たぶん走っても息切れはしない先に
   重力測定室の窓の明りがある
   ふたつの窓にくぐもるそれが
   露のみちた外の草はらにおよんでいる

   ついそこの裏門が入り口なのだ
   露の引力はしずかだが
   さっきおまえが文字を記して捨てた
   いちまいの紙のその裏は
   遠心力を失って白々と展いている

   ――光に重力はあるのか

 「――光に重力はあるのか」という設問を突きつけられて、思わず『理化学辞典』(第4版)を開いてしまいましたが、結論は重力はあるのだと思います。光の定義や重力の定義、重力レンズ効果などのややこしい理論を並べなければいけないのでしょうが、ここは物理学の教室ではないのでやめておきます。詩としてどうなのかを考えてみましょう。

 結論から言えばおもしろい作品だと思っています。「夜の重力」というタイトルも魅力的ですし、それが「ついそこの裏門が入り口なのだ」「――光に重力はあるのか」などのフレーズにうまく掛かっていると思います。「その通りがいつもの街路なのか/ <仰せの通り> の通りなのか」なんてフレーズも思わず笑いを誘って、いい効果をあげていると云えるでしょうね。

 さて、問題は「さっきおまえが文字を記して捨てた/いちまいの紙のその裏は/遠心力を失って白々と展いている」というフレーズでしょう。これは何の喩か? ここの受け止め方で作品の意味が大きく変るでしょう。「重力測定室」での測定結果とも考えられるし、「それ」の観察記録であるかもしれません。私は詩≠サのものと解釈しています。ちょっと硬質ですが探究心をくすぐる佳作だと思いました。



  湧太詩誌 No.11『いの字』
    yuta shisi 11    
 
 
 
 
2003.8.3
栃木県茂木町
彩工房・湧太氏 発行
非売品
 

    いの字

   息をつめて 筆をたてる

   「い」の字
   一つ書きました

   立てすぎても
   寝かせすぎても だめ

   近すぎても
   離れすぎても だめ

   墨の濡れぐわいほどに
   「い」の字
   女がよこたわる

 本号のタイトルにもなっている、冒頭の作品です。
 私は書には門外漢ですのでよく判らないのですが「立てすぎても/寝かせすぎても だめ//近すぎても/離れすぎても だめ」というのは納得できますね。「い」はいろは≠フ最初の文字でもありますし、書家にとっては思い入れも強いのではないかと想像しています。それにしても「墨の濡れぐわいほどに」「女がよこたわる」というフレーズはおもしろい視点だと思いました。



  季刊文芸誌『南方手帖』74号
    nanpo techo 74    
 
 
 
 
2003.8.10
高知県吾川郡伊野町
南方荘・坂本 稔氏 発行
800円
 

    手紙

   庭ニ日ノ光ガ落チテイル。

   拾イ上ゲヨウトスルト
   ヒラヒラ
   天ニ向カッテ逃ゲテ行ク。

   忘レタ頃ニ
   ソレハ私ノ家ニ配達サレテクル。

   アブリ出サレタ文字ノ向コウニ
   人ノ心ガ揺レ揺レシテイル。

   手紙ハ言葉カラ出来テイルト思ウノハマズイ。
   手紙ハ実ハ言葉ノ見タ夢ナノダ。

 最終連でハッとしました。常識的には「手紙ハ言葉カラ出来テイルト思ウ」のですが、「人ノ心ガ揺レ揺レシテイル」結果だとすると、「実ハ言葉ノ見タ夢ナノ」かもしれません。その前提として「日ノ光ガ」「拾イ上ゲヨウトスルト/ヒラヒラ/天ニ向カッテ逃ゲテ行ク」とするのは見事ですね。「日ノ光」と「手紙」という異質なものを見事に統合させた作品だと思います。



  隔月刊詩誌ONL68号
    onl 68    
 
 
 
 
2003.7.30
高知県中村市
山本 衞氏 発行
350円
 

    一枚の写真    柴岡 香

   柱や 天井板が
   炉の煤で黒ずんでいる
   そんな居間にも
   肉弾三勇士の写真が掛かっていた
   昭和初期の家庭では
   どこの家にも見られた風影
   昭和十六年
   太平洋戦争が始まってからは
   十四.五歳で少年兵として
   軍籍に身を置く者がたえない
   少年Aもまたその一人
   自分の居間に掛かった
   肉弾三勇士の写真についての理解は
   無言の教訓と受け取った
   はたち前後の若者が
   特攻と言う名のもとに
   肉弾となって死んでゆく

   日清 日露の戦の思想の流れが
   営々とつづいた恐怖を
   今
   誰が知っているか

 「肉弾三勇士」というのは、戦後生れの私などには馴染みがないのですが、一応知識としては知っています。と言っても日清戦争の時代か日露戦争に入ってからかも定かではないのですが…。「自分の居間に掛かった/肉弾三勇士の写真についての理解は/無言の教訓と受け取った/はたち前後の若者が/特攻と言う名のもとに/肉弾となって死んでゆく」原因となった写真とまでは思い至りませんでした。そして、この作品の素晴らしいところは「日清 日露の戦の思想の流れが/営々とつづいた恐怖」というフレーズでしょう。知識ではなく、実際の思いとしての重みを感じます。「今」に至る「思想の流れ」を改めて告発している作品だと思います。




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