きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

  kumogakure  
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科

2003.8.23(土)

 おふくろの七回忌。実家に親族だけが集まって法要しました。坊さんは高校の同級生。いつものことですけど昔話に花を咲かせながらの法事になりました。まあ、死んだおふくろとも仲が良かった坊さんですから、おふくろも喜んでくれたことと思います。おふくろの思い出話をしながら酒を呑むというのもいいもんです。
 なかなか墓にも行く暇がなかったんですが、今日はちゃんと行きました。かなり酔いましたけど、義務も果たせて、気持のいい1日でした。



  個人誌『伏流水通信』8号
    fukuryusui tsushin 8    
 
 
 
 
2003.8.20
横浜市磯子区
うめだけんさく氏 発行
非売品
 

    八月のイリュージョン   うめだ けんさく

   白い木槿の咲く頃
   俺の心は狂ったように
   風の音に合わせて
   哭き
   叫んでいた
   脳細胞の一つ一つが
   壊されていくように
   頭の軋みが聞こえる
   壊されていく日々
   その日々が
   浮かんでは消えていく
   まるで夏の夜空に咲く花火さながら
   掴みどころがない
   求めたものは
   幻だったのか

   白い木槿の咲く頃
   俺は
   昼といわず
   夜といわず
   星の数を数えながら働いた
   ときどき
   死んだ母の手が
   俺の頬を撫でてくれたような気もする
   生温かい風に
   慰められたこともあった
   八月のイリュージョン

   戦争の時代を経て
   また悪夢の刻を生きる
   壊すなら壊してくれ
   もう沢山だ
   傷つけられるのも嫌だけど
   傷つけるのも嫌だ
   俺の心は
   八月の強い陽射しの中で
   油蝉と一緒に
   狂ったように悶えている

   白い木槿の下で
   落ちていく花びらを
   掬っても 掬っても
   掬いきれず
   骨になっていく花びら
   俺は狂ったように
   哭き 叫んでいる
   焼け死んでいった者たち
   そこにいた妹を
   ただ見ているしかなかった
   悪夢の時代
   八月のイリュージョン

 何度も訪れてくる「八月」は、戦争を体験した者とそうでない者とでは根本的な意識の違いがあるようです。「壊すなら壊してくれ/もう沢山だ」というフレーズに特にそれを感じます。戦争を体験していない私などには「八月」の意味は理解できても、それはあくまでも頭の中でのことのようです。底の浅いものだと痛感します。作者の意識レベルには到底至っていないことがこのフレーズを読んだときにはっきりとしました。それは埋めようがないことなのかもしれませんが、せめて頭の中からだけでも消えないようにすべきだなと思った作品です。



  月刊詩誌『柵』201号
    saku 201    
 
 
 
 
2003.8.20
大阪府豊能郡能勢町
詩画工房・志賀英夫氏 発行
600円
 

    日傘の記憶    山崎 森

   派手な日傘をさして
   三人連れのおつたぼう*が往還をやってくる
   首に白い正絹のマフラーをし
   くわえ煙草をしている年かさの女は
   白粉やけが目立ち
   声高に喋ると金歯がきらりと光る
   年の若い娘は明治のチョコレートを小さく折り
   大事そうに食べながら歩いていた

   おったぼうは萩の公園に行くのだろう
   つつじや藤やあやめが盛りで
   オランダ渡りの色とりどりのチューリップは
   町の評判になっていた
   草履ばきの痍垂れや知恵遅れの餓鬼どもが
   おつたぼう ねたぼう ねてばばして ベべこうた
   と小川の竹薮から囃したてる
   女たちは日傘をくるくる回しながら通り過ぎた

   おつたぼうは決まって途中の水茶屋に寄って
   ところてんを食べた
   婆さんは只で冷した菓子瓜を食べさせる
   年かさの女がバット*を差し出すと
   きざみしかやらんといって手を振った
   一本くれんねと仕切りから男の掌が出る
   箱ごと渡し手を握る
   今宵 あん男はやさしか女の客になる

        *女郎 *ゴールデンバット (巻煙草)

 いつの時代なのでしょうか。大正か昭和の始めか、戦前の日本の情景が眼に浮かびます。「首に白い正絹のマフラーをし」というのは何かの映画で観た記憶があり、「おつたぼう」の象徴なのかもしれませんね。「草履ばきの痍垂れや知恵遅れの餓鬼ども」というのは、今ではなかなか使い難い言葉ですが、私の幼い頃は平気で使われていたものです。
 「おつたぼう」「痍垂れ」「知恵遅れの餓鬼」「水茶屋」の「婆さん」と、この作品には社会的に弱い者しか出てこないことにも気付かされます。作者の視線がいつもどこを向いているか、それが顕著に判る作品だと思いました。



  個人誌詩はがき 散葉集』5号
    sanyoushu 5    
 
2003.9.1
広島市佐伯区
楽詩舎・津田てるお氏 発行
非売品
 

    戦争は    津田てるお

   戦争は恋に似ている
    火がつき狼狽え ときめいて愚か
    徒労と涙があって後遺症がながい

   戦争は花火に似ている
    ともに歓声をあげ やがて沈黙する
    大金が消え 未練のこって欠伸する

   戦争は詩に似ている
    一方では喝采し 他方で舌をだす
    似てないのは 詩は金にならない

 今号ではイラク戦争の詩もありましたから、ここでの「戦争」はそうとらえても良いのかもしれません。もちろん太平洋戦争を考えても構わないと思います。それにしても「戦争」をこのようにとらえた作品には初めて出会いましたね。「恋」「花火」「詩」という三つの喩で見事に表現していると思います。特に最終連の「詩」は、それこそ「喝采」です。もちろん「他方で舌をだす」なんてことはしていません(^^;




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