きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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「クモガクレ」 |
Calumia
godeffroyi |
カワアナゴ科 |
2003.9.1(月)
9月になりました。早いものですね、時間の流れは。二百十日だそうです。防災の日でもあるそうです。だから何だ、と言われても困るんですが、真面目に会社に行って、まあ、それだけの日です(^^;
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2003.6.30 |
石川県金沢市 |
能登印刷出版部刊 |
2000円+税 |
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負け犬
曽野綾子は語る
「人は生まれたから生きていくのです、私が生まれたの
は私の意思ではありません、それでも生まれたのは、生
き続けろということだと思います」
或る外出の折
中学校のグラウンドを覗いた
彼が部活のサッカーをしている筈だった
グラウンドの外周を独り走っている少年を見た
顔は輝いていなかった
身体に恵まれない彼は部に不要人間だった
球に近寄れないようにして邪魔者は部から追われた
最初に味わう挫折
負け犬
お前に意思が生まれるより遥か前のこと
幾億とも知れぬ仲間に競り勝って、母の元に辿り着いて生命となった者がある
精霊が在るのかどうかは私に分かることでないが
その時、自らのエネルギーで奇跡を起こした事実がある
生きていく意欲の深部へ、無意識界の生への強い趨勢が受け渡されたのだ
生まれ生き続けていくのは
意思よりも深い次元の
理由や理論付けなんて無用の生命の定言命令だ
幾度も挫折は訪れるだろう
己の存在への疑問は
新たな存在の探訪への扉を、自ら開いたことなのだ
生を受けた者で 負け犬はない
最終の「生を受けた者で 負け犬はない」というフレーズに感動しました。なぜ「負け犬はない」のかということは「幾億とも知れぬ仲間に競り勝って、母の元に辿り着いて生命となった者がある」「その時、自らのエネルギーで奇跡を起こした事実がある」というフレーズに書いてあります。その通りだと思いました。「生を受けた者」は「自らのエネルギーで奇跡を起こした事実がある」のだと、納得させられました。
この思想は詩集のいたる処に見られます。一本、芯の通った詩集で、読み終わって深い感動を味わった詩集でした。
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○秦恒平氏著『湖の本』エッセイ29 青春短歌大学 下 |
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2003.9.1 |
東京都西東京市 |
「湖(うみ)の本」版元
発行 |
1900円 |
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別離 井上
靖
中学時代からヨット・ハーバーという言葉を耳にすると、すぐ眼に浮か
んで来る風景があった。ひっそりした小さい入江、真夏の陽が落ちてい
る静かな海面、マッチの軸で作ったような桟橋、その向うのヨット溜(だま)り、
入江の口の向うは荒い外海で、鏃形(やじりがた)の岩礁に波が白く砕けているのが見
える。
三、四年前、ギリシャの地中海に沿った漁村で、私ははからずも私のヨ
ット・ハーバーを見付けた。ホテルの庭の裏口から磯へ降りて行くと、
崖っぷちを埋めている雑木の間からその入江の碧(みど)りの潮が見えた。桟橋、
ヨット溜り、外海の鏃形の巌(いわ)、――ああ、こんなところに匿(かく)されていた
のかと、私は思った。
そのヨット・ハーバーの磯に降り立った時、丁度一艘のヨットが帆を張
って、外海へ出て行くところだった。ヨットには黒人の娘がひとり乗っ
ていて、私のほうにやたらに手を振っていた。私も夢中になって彼女に
応えて手を振った。私は( )に( )ってよかったと思った。ヨット
がすっかり視野から消えてしまっても、私はそこから立ち去りかねてい
た。相手の顔かたちすらはっきりしていなかったが、紛ろうべくもない
別離の悲しみだけが私の心にはあった。
ルビが使えないので行末が揃いません。原作は揃っていると思って見てください。
著者は東工大文学°ウ授の時代に、虫食い短歌として( )に文字を入れるということを学生にやらせる授業を続けてきたそうです。その一端は「エッセイ27」として、この本のシリーズにありますが、ここでは詩でそれをやっています。( )の中に適当な文字を入れよ、その理由を書け、というものでしたが、私もやってみて苦しかったですね。正解は間≠ニ合≠ナす。
素晴らしい詩だと思いました。しかも416人の学生のうち146人が正解したというのですから、これも素晴らしい。ただ、詩の解釈≠ニしてはどうでしょうか。「間に合ってよかった」となぜ思ったのかが解説≠ナきなければいけないわけですが、私と多少近かったのは次の学生クンの回答です。
*ここで言う別離の悲しみは、二つのことを含んでいる。一つは、たった今に出逢い、一瞬親しくなっ
てたちまちに二度と逢えない人との別れ。もう一つは、地中海のヨット・ハーバーがあまりに詩人のイ
メージどおりであったため、おそらく「ヨット・ハーバー」の語に想う情景ははや中学時代からのもの
ではなくなり、地中海のそれと置き代る。それまでは常に心のなかにあったものが二度と思い出せない、
その永遠に失ったという自覚が、ヨットの見えなくなることと重ね合わせて「別離」の悲しみを強烈に
誘っているのではないか。 (三年・男子)
詩の解釈≠ヘ、大筋さえ違っていなければ人それぞれで良いし、年代によってイメージも変ってきますからこれが正解と言うことはできないんですが、「一瞬親しくなってたちまちに二度と逢えない人との別れ」は不要だろうと思っています。
記憶の彼方へ消え去ろうとしていた中学時代の風景が現れた、記憶から去る前に現れた、間に合った、だから良かった。でもそれは中学時代に持っていた感覚への「別離」でもあり、その「悲しみだけが私の心にはあった」のだ、と思うのです。「黒人の娘」は旅で知り合った娘とも解釈できますが、創作とも採れます。この解釈は難しいけど、詩を深く印象付けるのには役立っていると思います。
まあ、そんな表面的な解釈はどうでもよくて、詩の何たるかを改めて考えさせられた井上作品でした。先日、電子文藝館に載せる井上詩の校正をやっていて感じたのですが、この詩人の詩作品はエッセイのような書き方ですが奥が深いですね。詩は技巧だけではないとつくづく感じたものでした。
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