きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

  kumogakure  
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科

2003.9.3(水)

 会議、会議の一日でした。来週予定されている会議のための会議、というのは傍から見ていると笑われそうですけど、当事者は真剣です。組織に会議はつきもので、なぜ会議かと云うと、個人の権限が少ないからだと思っています。個人が決定するなら会議なんて必要ありませんからね。組織として活動するには、組織という人格≠ナ対応するには、担当部署の合意が必要。だからどうしても会議ということになる、、、なにか新しい組織論が出来そうだな。そんなことを考えて会議をしていたわけではありませんけど、ふと、一日を振り返ると、そんな思いが残りました。



  詩誌『現代詩図鑑』9号
    gendaishi zukan 9    
 
 
 
 
2003.9.1
東京都大田区
ダニエル社 発行
300円
 

    こまったな    高木 護

   眠っていても
   選りによって
   わたしのドアを叩きにくる仁がいる
   物好きなのか
   お節介なのか
   逢ってみないとわからないけれど
   はい、とか
   どなたですかとかのへんじの前に
   今夜も夢がはじまる
   屍体置き場のベットの
   捕虜使役の
   家出の
   タコ部屋飯場の
   浮浪者の
   野宿の
   飢えの
   行き倒れの
   オサキマックラの
   夢はどれもはらはらで
   跡切れることもなく
   映画よりも
   テレビのドラマよりも迫力があって
   その主役はわたしときている
   たとえ死にかけていても
   みごとに生き還ってしまい
   目が覚める
   ああ、わたしはまだ生きているぞ!

 タイトルがおもしろいと思いました。「ああ、わたしはまだ生きているぞ!」ということですから、実になんにも困っていないんですけどね。困っているのは「眠っていても」「わたしのドアを叩きにくる仁」たち。それも選りによって「映画よりも/テレビのドラマよりも迫力があ」る。でも、やっぱり「たとえ死にかけていても/みごとに生き還ってしま」うわけですね。
 「夢はどれもはらはらで」「こまったな」というのは判りますが、最後の1行で救われていると思います。思わずニンマリとしてしまった作品です。



  詩マガジンPO110号
    po 110    
 
 
 
 
2003.8.20
大阪市北区
竹林館・水口洋治氏 発行
800円+税
 

    空っぽ    ひろい

   幼いころに見おぼえのある
   すすけたひき戸がある
   そおぅっと開けると
   生まれたての
   赤んぼうの妹がいて
   子もり唄がきこえてくる

   くぐもった声は呪文のよう
   ひき戸は開いたり閉じたり
   誰かが出入りする気配だ
   けれども ほんとうは
   誰ぁれもいなくて
   今はこの家の空っぽだけが
   ひっそり湿った息をしている
   庭は苔むし
   納戸は かび臭く匂っている
   祖父の しわぶきが
   ほむらのように甦り

   納屋にかかった夕陽は
   緋の色をしている
   その陽が家に燃えうつり
   くすくす焦げて 焼けおちた
   女ばかりが生まれる
   この家は始めから
   なにもかも
   空っぽだったに違いない

 現在から過去を見ている作品と思いますが、「女ばかりが生まれる」から「空っぽだったに違いない」という言葉が重くのしかかってきます。現実にどうかは別として、作者のその視線が作品全体を支配しているようで、ある諦念観を感じます。それが表面の言葉のやさしさ、例えば「そおぅっと」「誰ぁれも」というような使い方に現れてくるのでしょうか。
 そういう限定的な捉え方ではなくて、「空っぽ」とは私たちの内なる精神と捉えても良いのかもしれません。良い意味で心に引っ掛ってくる作品です。



  富沢智氏詩集『大人の日』
    otona no hi    
 
 
 
 
2003.8.8
群馬県北群馬郡榛東村
榛名まほろば 発行
1500円+税
 

    大人の日

   あっヤスダセンセー
   生涯の最初に
   あらわれた先生は
   ヤスダセンセー
   私というものが
   ぷるんぷるんの脳のまっさらなどこかに
   初めて刻みつけた
   女の先生の名前でした

   それがそのまま
   美しいおばあちゃんになって
   あなたを知っているような気がします
   なんて言うなんて
   大人になるのも素敵なことだな
   と思ったよ

   相馬幼稚園がどこにあって
   どんなおゆうぎをしたのか
   思いだそうとしてもムダです
   それから覚えたことなどが
   四十五年分ものしかかっているので
   都合良く押しつぶされて
   嘘のかたまりになっているはずですから

   ヤスダセンセーは
   まぶしそうな大きな瞳で
   私のようなものを見つめ
   なんだか世界は
   とてつもなく明るくて
   一枚の白黒写真のなかで
   そのとき
   ヤスダセンセーだけが
   大人だったんだと
   いまは分かっています

 詩集のタイトルポエムです。これは私にも覚えがありますね。「ヤスダセンセー」は男にとって初恋の人なのかもしれません。「それがそのまま/美しいおばあちゃんになって」いたなんて、何ともうらやましい話です。
 この詩集は著者にとって7冊目。紹介した作品の他にも、天女のおしっこの後始末と見立てた「天女の羽衣」、昔の恋人と逢ったMさんを店に迎える「キネマの夜」、辻征夫を追悼する「貨物船」と、まさに大人≠フ世界を描いています。たった12編しか載せていないというのも大人のゆかしさ。いい詩集です。富沢詩の世界が凝縮された詩集です。




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