きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

  kumogakure  
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科

2003.9.16(火)

 新製品の懸念点を検討する会議が東京本社で開催されました。休日出勤をして用意した報告書を持って行ったんですけど、問題の根は深そうです。現在のところ市場で大きなトラブルとなる可能性は低いんですが、将来、市場の性能に対する要求が高まった場合、顕在化することもありそうです。そうなってから対策を講じても遅くはないのでしょうが、自覚があるのなら早く手を打つのが会社の方針ですし、私のモットーでもあります。と、格好のいいことは言えるんですけど、現実問題としては基本的な設計から見直す必要も感じられ、そうなると費用も膨大になります。下手をすると億の金をかけて、研究員を投入して、時間をかけて、ということになりかねません。それでもやるかやらないかは、結局のところ経営者の判断になります。うーん、困った。品質の責任者としては、やるべし、と言っておきましたけどね。
 会議が終って、みんなで西麻布で晩メシを食べましたけど、今夜のお酒はほろ苦かったです。



  二人詩誌『夢ゝ』15号
    yumeyume 15    
2003.10
埼玉県所沢市
書肆夢ゝ・山本 萠氏 発行
200円
 

      かげろう
    光の蜻蛉    山本 萠

   ――光から 最も遠い箇所
     を 光に変えていくのね あるいは
     傷んだ幾多の 黙 を

   樹々に埋もれていく 小舎の闇 より
   夏ごとのひとつの あらわれに
   小刻みに発火する 束の間 の

   薄羽蜻蛉 という

   涯のような所からの合図 で
   翔ぶ ひくく
   落下するため に

   手をこすり合わせ 翔ぼうとし なお
   落ちる だろう
   竹の葉隠れへ一枚の葉と化身するだろう

   かつてない己の声を 鳴く のも
   そのためだった

 難しい作品ですが、第1連に惹かれます。「光から 最も遠い箇所」を「黙」ととらえてみました。「光の蜻蛉」というタイトルからは、光が蜻蛉のようである、または、蜻蛉が光のようである、という読み方が出来ると思いますが、おそらく両方のイメージで接した方が良いでしょうね。「竹の葉隠れへ一枚の葉と化身するだろう」というフレーズは「黙」「小舎の闇」と関連づけて読んでみました。「かつてない己の声を 鳴く のも」は難しい。主語が「蜻蛉」なら「鳴く」ことはないのですが、鳴いても構わないと思います。最終連がどこを主として受けるのか、その読みで大きく変ってくる作品だと思います。



  二人詩誌『夢ゝ』別冊5
       
 
 
2003.10
埼玉県所沢市
書肆夢ゝ・山本 萠氏 発行
500円
 

   飛ぶ夢と、落ちる夢とは、よく、みた。だれでも、そうらし
   い。飛べるわたしは、ひとの手のとどくくらいの、頭の上あた
   りのところか、一階建てか二階家の、屋根のすれすれのたかさ
   を、ゆく。思うように高度がたもてないときもあるし、大丈夫
   なときもある。落ちる夢は、崖から飛び込む夢で、いつも飛び
   込まない。だから、落ちずに、目が、覚める。

   あかぎさぶろう

 『飛べたらな』というタイトルのついたクレヨン画集です。やわらかい線の絵が22枚も載っていました。詩は添えられてなく、表紙4に山本さんと赤木さんのあとがきのような文章が載っていました。紹介したのは赤木さんの文章です。詩として読んでも違和感はありませんね。
 「飛ぶ夢」は私もそっくり同じでした。本当に「だれでも、そうらしい」のかもしれません。不思議なことですが、未だに解明されていないようです。そんな思いで絵を見ていくと、空想の世界へ誘われているようでした。



  機関誌『未知と無知のあいだ』18号
    michi to muchi no aida 18    
 
 
 
 
2003.10.1
東京都調布市
方向感覚出版・遠丸 立氏 発行
250円(〒共)
 

   野川「両手を、こう、派手に振って、肩怒らせて(われこそは天下
   の王者!)とでも云うかな、肩で風を切るように闊歩する御仁がい
   る。こんなのは決句単純な人ぢゃわい。底が浅い、単純ぢゃからて
   らいもなく
おおげさな歩きができるて。その人の表裏がお見とおし……
   演劇的に大ぶりな仕草の御仁ほど中身は草色単純なのさ。
    小股で、視線を下に落す、心もとなげにとでも云うか、トボトボ
   と云うか、そんな歩幅の歩きの人がおる。彼の人生の眺望が目に見
   
えるようぢゃ……慎重、小心な性(さが)を直哉に告げているようなもので
   ……。こんな人に話しかけたい気は起らんねえ。手堅いかもしらん
   が自己保身に汲々……常識の軌道から一歩も踏みはずそうとせん。
   これと似たタイプに <せかせか歩き> がある。まことにせかせかと
   一秒半瞬を惜しむような風情で、な……。一分一秒を争う勤め人の
   習性をそのまま散歩に持ち込んでおる。(毎日せっせと忙しく働い
   ています。ごらんのとおり!)天上天下に宣言しているようなもん
   で、戴けないねえ。川辺散歩ぐらいゆったりと別世界に遊ぶゆとり
   を持って欲しいんぢゃよ。両手の振りをシナシナさせて、つまりシ
   ナを作って、散歩する中年の女。人前ではシナを作る――天性おん
   なの習性がそのまま露わなんぢゃ。
散歩の時まで本人はそうと気付
   いてないかもしらんが……。
    …悠々たる歩きぶり、自分流歩幅をたのしみながら…時に立停っ
   て空を仰ぐ、漠々たる雲の往き来
、凝っと追う、何事か沈思するふう…
   また歩き出す、今度は水鳥達の喜々として
戯れるさまを放心して見入
   る…こういう御仁が懐しい。心底散歩をたのしんでおる。あんたは
   そのタイプだとお見受けした。思わず声を掛けてしまったわけぢゃ」
               (遠丸 立氏「野川物語」第一部 部分)

 野川(川の名)に散歩に来た無師野という男に、擬人化された野川が話しかける場面です。散歩する人間を見ての野川の反応ですが、良く見ているなと思います。さて自分はどれなんだろうと、つい振り返ってしまいますね。たぶん「 <せかせか歩き> 」でしょう。
 人間を語る手法として川をもってきたのはおもしろいと思います。人間に人間を語らせたら在り来りになってしまうでしょうが、こちらも川の視線で考えられます。基本的には哲学論ですが、この先、展開が楽しみな「物語」です。




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