きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
】
|
|
|
|
|
「クモガクレ」 |
Calumia
godeffroyi |
カワアナゴ科 |
2003.9.17(水)
17時半に東京本社の社員が来て、結局21時過ぎまでいました。彼は煙草を吸う男なので、二人で喫煙室に籠って検討会をしました。新製品に懸念される問題点をどうやって解決するか、それだけに4時間を使いました。この分野は彼の方が経験豊富なので、私はもっぱら聞き役でしたが、どうやら見通しを得ることができました。やるべきことも見通しがついて、やれやれ、です。4時間は無駄ではなかった、と思いたい(^^;
|
|
|
|
|
|
|
|
|
2003.9.6 |
千葉県長生郡長生村 |
草原舎刊 |
2000円 |
|
冬の筐
そもそも蓋のない筐に
もはや言葉はない
云えばくり言になるだけだが
漆黒の沈んだ肌
さわれば湿りをおびてうすら冷たく
少し角のとれた文箱の蒔絵の砂子に
たった一羽貝の千鳥がいて
月夜のような濡れた光がいつも淋しく
孤独な少女が語りかける相手にふさわしかった
ひたすらな思いで
箱の中に何を詰めていたのだろう
おぼつかぬ手つきの作業は
思えば稚ない薄荷菓子だったのかも
すぐ崩れるとは知らず
祈りの形で滑りおちて重なる蓋の
かすかな息づかいに
中身は覗く事の出来ぬ夢が含らんでいた筈だ
僅かな指脂にも曇りがちな沈金の波模様を
紅絹(もみ)で丁寧に拭いた思い出ばかりが今も
匂やかに心をめぐる
長旅のどのあたりで置き忘れたか失くしたか
ずり落ちて行くのをいっしんに支え
戦火の日々胸に抱いてさまようたものを
気がつけば手許には片身だけの空っぽの
煙がたち昇り
いつか白髪になり果てた臘のような山姥にも
まだ恋うるものはある
飛び去った千鳥の ち ち ち と鳴く
遠く広かな消息なりとも
あとがきには今はもう廃刊された「河」時代の旧い作品ばかりを拾い集めました≠ニありました。「河」という詩誌は名前は聞いたことはあるもののほとんど知りませんので、日本詩人クラブ編『「日本の詩」100年』で調べてみました。創刊1953年4月、主宰者・上村肇氏。発行所は長崎県諌早市・紀元書房とあり、菜の花忌および伊東静雄顕彰事業を行っている、とありました。1999年3月に115号が出ていますからその後廃刊になったのかもしれません。詩集作品の初出は6号から103号だそうですから、40年ほどの間の作品が多いと思われます。
紹介した作品は詩集のタイトルポエムです。「筐」ははこ≠ニ読みます。この作品は伊東静雄賞佳作賞を受賞なさったそうです。浦島太郎伝説のように「いつか白髪にな」って、「冬の筐」のイメージがあったとしても「まだ恋うるものはある」とするところに作品の素晴らしさがあると思います。
なお、インターネットでの日本語処理の不備によりルビが使えません。(
)で代用しています。ご了承ください。
|
|
|
|
|
|
|
|
|
2003.9.15 |
大阪府堺市 |
横田英子氏 発行 |
500円 |
|
八百よし 釣部与志
玉ねぎ
断わられへんのか 連れやから
取引の商売仲間 男の友情と面子が歪む
相手の借金 保証人の印鑑突いたばかりに
なにが友達やん 夜逃げして居れへんで
なんでやねん 借金取りに追いまくられて
嫁はんに離婚言い渡されるし 判子は恐い
むいても剥いても 涙が出てくるわ
世知辛い世の中 自分の始末は自分持ち
玉葱小屋で 風に晒されて辛みも抜けて
小商いの八百屋のおっさん 愚痴っても
玉葱の輪切り れんこんの穴 芋判
子供銀行の約束手形 あれも幻影やった
昔 大山崎の連歌師 山崎宗鑑に問うて
付け句に困ったら 出合う句はと尋ねた
『それにつけても 銭の欲しさよ』と答えた
創刊70号の記念号です。おめでとうございます。12年間、隔月刊を守り続けた同人諸兄に敬意を表します。また、今号は7月に亡くなった田井中弘さんの追悼号ともなっていました。確か、田井中さんは『RIVIERE』の同人ではなかったと思うのですが、そういう枠にとらわれずに追悼号を編んだわけで、そこにも敬意を表しています。
紹介した作品は「八百よし」という総題のもとに「胡瓜」「紅たで」「くわい」「ししと」「キャベツ」「れんこん」「みょうが」「玉ねぎ」と8編の詩が収められていて、その最後の作品です。八百屋に関する作品ですから、数も八≠ノこだわったのかもしれませんね。下町の八百屋の主人が見た世の中、という設定になっています。「玉ねぎ」にもそれは現れていて好感を持って読むことができました。『それにつけても 銭の欲しさよ』という最終連がよく効いていると思います。
|
|
|
|
|
|
|
|
|
2003.9.12 |
神奈川県伊勢原市 |
丹沢大山詩の会・中平征夫氏
発行 |
非売品 |
|
伊料理店でのこと 古郡陽一
閻魔王となった国がイラクの地に
真っ赤な閃光と黒煙をあげた 日
若くして戦死した父の墓に花を手向け
パスタの美味しい店で ワインを飲む
娘の再就職と私の六十歳(かんれき)を祝って
みどり児に 安らぎを与えられる日は
いつ来るの? 会話はたびたび
イタリア語の陽気な喧騒にかき消される
その時 通路をへだてた
窓際に 若い二人が席をとった
娘は若者を抱えるように
向かいの席に ゆっくりと座らせた
腕を怪我しているのか
障害があるのかは わからない
娘は 普段着風の丸首セーターを着ていて
ハッとするほどの美人というのではない
化粧も殆どしていない
しかし細い目にたくさん優しさが溜まっていて
若者に語りかける時 いたわりや切なさや
包み込む親しさで いっばいに輝きだす
ほろ酔い気分の私は
ああいう娘(こ)なら もう一度恋をしてみたいな
娘は
お母さんの若い頃に似ているんでしょ と
気遣うように振り返り 先に店を出る
結婚を決め木曾に旅した時の
車窓に映った妻の眼差しが蘇り
滲むように広がってゆき
失いつつあるものの残骸が 胸を刺す
肩にそっと手を置き
駅への帰途(みち)をゆっくりと歩く
(二〇〇三年 三月初作、五月一部改)
「ああいう娘なら もう一度恋をしてみたいな」という思いは判りますね。男も50を過ぎると女性を見る眼がしっかりしてくるようで、「ハッとするほどの美人というのではない/化粧も殆どしていない/しかし細い目にたくさん優しさが溜まってい」ることが判るようになります。それが結果として「お母さんの若い頃に似ている」のなら万歳なんですけど…。
女性に限らず、人を見る眼というものを考えさせられた作品です。
(9月の部屋へ戻る)