きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

  kumogakure  
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科

2003.9.26(金)

 品川に出張していました。関連会社との定例会議です。13時から始まって18時近くまで。意外に時間が掛かりました。大きな問題はないんですが、そうなったらなったで細かいことまで議論になるんですね。どうやって儲けるかという商売の話ですから当然なんですが、飽くなき追求というものを感じます。不況の今だからこそ余計に知恵を出し合う必要があるんですね。お互いの会社が儲かり、お客さんにも喜んでもらえる商品作りはそんな積み重ね、地道な努力の結果でしか現れないものだと思います。



  月刊詩誌『柵』202号
    saku 202    
 
 
 
 
2003.9.20
大阪府豊能郡能勢町
詩画工房・志賀英夫氏 発行
600円
 

    むぎぼし
    麦 星    南 邦和

   日本一美しい星空を持つという
   高崎町のたちばな天文台を訪ねた
   バンダナのよく似合う自由人の台長
   その父上は高名な歌人であった
   はじめて見る口径500ミリの反射望遠鏡に
   コウスケもダイチも目を丸くしている
   七月六日午後五時 七夕の前日であった

   真近に霧島連山を望み
   緑の屏風に囲まれたこの町は
   天然のプラネタリウム
    (星降る街≠ェキャッチフレーズだ)
   赤いビードロの太陽 青い月の表情
   天文好きの少年だったぼくには
   天体望遠鏡などはるかに遠い夢だった

   明るい空にトパーズ色の光を放つのは
   牛飼い座の一等星アルクトゥルス
    (日本ではむぎぼしと呼ばれていました)
   万年青年の台長は
   昔 農民たちがこの星の位置で
   麦刈りの時期を決めたのだと教えてくれた
   ぼくは 天上の麦畑の黄金の波を想像した

   その星の近くに白く光っているのは
   麦の穂をたずさえた乙女座のスピカ
   アルクトゥルスとスピカは夫婦星
   孫に星座の物語を語るぼくの眼底に
   ひと月前に眺めた佐賀平野の
   美しい麦秋の風景が帰ってきた
   この子らは麦畑も知らないのだが……

      たちばな天文台・所在地 宮崎県北諸県郡高崎町

 天文には疎くて、彦星と織姫≠フ彦星が「牛飼い座」なんだろうな、ということぐらいは判るんですが、それが「麦星」と呼ばれていることは初めて知りました。50の過ぎてもこの非常識ですから、「この子らは麦畑も知らないのだが……」というフレーズを驚くことはできませんね。でも、本当に今の都会の子はそうなのかもしれません。
 それはそれとして、作品としては美しい詩だなと思いました。特に「ぼくは 天上の麦畑の黄金の波を想像した」というフレーズは想像力を刺激します。「たちばな天文台」にも行ってみたくなる作品です。



  西田義篤氏詩集『水の幻想』
    mizu no genso    
 
 
 
 
2003.9.10
宮崎県東諸県郡高岡町
本多企画刊
3000円+税
 

    白い町

   点滴が終り母が眠り込んだのを確かめると
   私はそっと病室を出る
   ほの暗い階段を数えながら降りていくと
   外はひかりが溢れている
   雲の切れ目にはうすい虹も架かっている
   ただそれだけのことで
   私は許されたような気になる

   ブーゲンビリアやハイビスカスの繁みを抜けると
   急に視界が開け商店街にでる
   小綺麗な店舗が海辺の通りまで続いているが
   人影はまばらだ
   シャッターを鎖した店が目につくが
   もう気にとめることはない
   駅前の広場の花壇には
   色とりどりの園芸花が植えこまれ
   ひと足早い春の装いだが
   誘いこまれることはない
   異郷の地に深く根を張る椰子の梢を
   私は旅人のように見あげる
   扇状の葉が揺れ黄色の花房が垂れている

   線路に面した喫茶店で
   朝食でもなく昼食でもない食事をする
   窓の外に目をやると
   鳶がゆっくりと旋回している
   こんな町中にも獲物はいるのだろうか
   鳥が一羽空にいるだけで風景は昂ぶる
   紙屑やビニール袋が吹き寄せられていく
   線路の向う側に気になる一角がある
   高い建物に囲まれてそこはいつも暗いのだが
   低い瓦屋根やトタン屋根が見える時がある
   私はこの町に住んでいたはずはないし
   あのあたりを訪れたこともないのだが
   妙に懐かしい気になるのだ
   多分 あのあたりには古い風が巡り
   亡くなったなつかしい人々が
   いまもひっそりと暮している
   そのなかに屈みこんで物書きをしている父も
   まぎれこんでいるかもしれない
   ――そう信じたくなってくるのだ

   ここは父が逝きやがて母が逝く町
   砕け散る陽光と湯煙のなかに
   町は白く晒されている
   花粉も舞っているのかもしれない
   白い色ははじめの色であるが終りの色でもある
   幾重にも白色を塗りこんでいくと
   風景はしだいに透明になる
   ある夏の日
   ひとは自分でも気付かないうちに
   白い十字路をすぎて
   不意にみえなくなっていくのだ

 日本詩人クラブ会員でもある著者の、40年ぶりの第2詩集です。活動の場は『解纜』という同人誌が主のようで、正直なところ今まで作品を拝見した記憶はありませんでした。初めて拝見して、こんな素晴らしい詩人がいたのかと驚きました。傲慢な気持で書くわけではありませんが、拙HPには年間600冊ほどの詩誌・詩集が送られてきます。1999年の開設ですから単純計算で3000冊ほどを拝見してきました(それ以前からを含めると5000冊を越える?)。その中でも10本の指に入る詩集ではないかと思います。もちろん私が全国のすべての詩誌・詩集を拝見しているわけではありませんから、狭い範囲でのことですけど…。

 紹介した詩は詩集の最後に置かれている作品です。詩集冒頭には、詩集のタイトルポエムでもある「水の幻想」1〜4、「火」1〜2もあって、それも素晴らしいのですが、グッと堪えて詩集の最後を飾る作品を紹介する次第です。
 著者は永年、高校の美術教師をし、フランスにも留学した経験のある画家ですから当然かもしれませんが、イメージが鮮明に伝わってきます。「鳥が一羽空にいるだけで風景は昂ぶる」というフレーズは並の詩人では出てこない言葉だと思います。「多分 あのあたりには古い風が巡り/亡くなったなつかしい人々が/いまもひっそりと暮している」もイメージ豊かなフレーズだと思います。

 そして圧巻は「ひとは自分でも気付かないうちに/白い十字路をすぎて/不意にみえなくなっていくのだ」というフレーズでしょう。この感覚は詩人が自然に身につけなければならないものだと思います。絵描きさんのことは詳しく知らないのですが、おそらく画家にも求められているものではないでしょう。詩人・画家の、芸術家として本質的に備えていなければならないものを表出させた詩集だと思います。ちなみに詩集の扉に収められた荒涼とした砂浜の絵も見過ごせません。詩作品とともに是非手に取って見てほしい詩集です。



  季刊文芸誌『中央文學』463号
    chuo bungaku 463    
 
 
 
 
2003.9.25
東京都品川区
日本中央文学会・鳥居 章氏 発行
400円
 

 今号は詩作品がなく小説が3本。巻頭作の柳沢京子氏「心の袋」がおもしろかったですね。60代前半と思われる夫婦の話で、妻の立場から書かれています。夫がテニススクールで知り合った人妻の顔写真をパソコンに取り込んで密かに見ているのをたまたま発見してしまった。どうも、気に入った写真をスキャナーで取り込んで、8枚も貼り付けたらしい――なんてところは、いかにも現代です。その人妻とはただならぬ仲のようだと気づいた妻の行動は……。
 問い質された夫が「話が合うので」と答えたことに怒りを覚えるなど、女性らしい視点で書かれていますが、なぜか爽やかです。ある年齢を過ぎると生々しさが無くなるのかもしれません。私も50を過ぎて多少は判る気がします。新しい感覚の小説に発展していきそうな雰囲気のある作品だと思いました。




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