きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

  kumogakure  
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科

2003.10.1(水)

 10月1日の日記をようやく11月9日に書くことができるようになりました。一時は2カ月近く遅れてしまいましたから、いったいどうなることやらと思っていましたけど、何とか追い着く見通しがつきました。でもやっぱり、1ヵ月以内には縮めたいですね。そうしないと何をやってきたか忘れてしまう(^^;
 で、肝心の10月1日の日記はというと、特になし(^^;;;



  詩誌『よこはま野火』45号
    yokohama nobi 45    
 
 
 
 
2003.10.1
横浜市神奈川区
よこはま野火の会・菅野眞砂氏 発行
500円
 

    春キャベツ    浜田昌子

   今日も泣かせてやる
   毎日一枚ずつはがすキャベツの葉
   二枚目 三枚目
   無言だったキャベツは
   白い脳味噌となって
   キキキイと泣き出す

   細かい皺の中に皺をたたんで
   白い葉脈までくっきりと浮かぶ
   泣いて抵抗するこのキャベツの
   知能指数は高いぞ――

   若くて重い脳味噌に
   私のジェラシーはつのり
   一枚はぐたびに泣かせる快感
   最後まで食い尽くしてやる――

   掌に載るほどになったキャベツの
   白く小さい葉を開くと
   胎児の形に蕾がこごまっていた
   キャベツは身ごもっていたのだ
   弾け出た花の未熟児

   俎にこぼれた白い蕾を寄せていると
   春キャベツの悲鳴が聞こえてくる
   花冷えの厨

 「春キャベツ」を「泣かせてやる」というのはおもしろい発想ですね。「知能指数は高い」「キャベツは身ごもっていた」という擬人化も今までにない発想だと思います。でもやっぱり「花冷えの厨」なんですね、そこに作者のやさしさを読み取りました。
 今号も印象に残る作品が多々ありました。加藤弘子氏「躾」、はんだゆきこ氏「スポーツ」、菅野眞砂氏「わかれ」など日常の中の意外な面を切り取っていて秀作だと思います。



  月刊詩誌『現代詩図鑑』10号
    gendaishi zukan 10    
 
 
 
 
2003.10.1
東京都大田区
ダニエル社 発行
300円
 

    空き家の賑わい    佐藤真里子(さとう まりこ)

   古くて暗くて大きくて崩れかけている
   この空き家
   この実家の
   閉めっきりの窓を開けて
   かび臭い空気を逃がしてやる

   縁側に腰掛けて
   荒れ果てて竹が密生した庭を見ていると
   しずかに寄せてくるのは
   もう私が最後の一人になった滅んでゆく一族の物語
   かってここに住んでいた者たちの気配だ

   山鳩の鳴く声
   のどかな町内放送が
   外で農作業をする人たちのために
   お昼どきを告げている

   台所で忙しく立ち働く人々の賑わい
   湯気に乗って届く懐かしい味の匂い

   本が好きだった父は
   未整理の本の積み山のかげで一冊の本に夢中だ

   発狂して生涯お嬢さまだった母は
   ひび割れたレコード盤をまわしながら
   洋間でダンスのお稽古に没頭している

   放蕩の限りを尽くして行方不明のままの兄は
   今のわたしより若い最後に見た姿で
   タンスをあけて持ち出す品物を物色中だ

   未来に汚染されていたかのような
   過去の絵巻は走馬灯になってまわり

   さっきから気になっていた
   呼んでいるような微かな声

   あの部屋この部屋とひらき
   一番奥のふすまをあけると
   子供のようにひざを抱えて
   十八歳の私が泣いている

   何がかなしいのだろう
   それはこの家を出た年だった

 「もう私が最後の一人になった」「一族の物語」ですが、家族の人間像がよく描かれていると思います。「本が好きだった父」「生涯お嬢さまだった母」「放蕩の限りを尽くして行方不明のままの兄」も顔まで浮かんで刳るですし「子供のようにひざを抱えて/十八歳の私」も生きていると思います。現実はともかくとして詩作品としての家族像は作者の詩人としての栄養になっているのではないでしょうか。最終連の「それはこの家を出た年だった」という1行もよく効いている作品だと思います。



  詩誌ひょうたん21号
    hyoutan 21    
 
 
 
 
2003.8.10
東京都板橋区
ひょうたん倶楽部・相沢育男氏 発行
400円
 

    あしたまた    阿蘇 豊

   スイッチを回すとカチッと音がして
   やみになる
   目を開けていてもやみ
   ほかの目がないので
   ヒトの骨をはずしてナメクジに戻る
   やみを吸ってゆっくり吐き出すと
   オセロゲームのコマのように
   次々に白く反転して散らばる
   そして少したつと
   本棚の背表紙がぼんやり浮き上がる
   どこかに光がかくれていたのだ

   目を閉じてもやみ
   このまま
   ずっと目が開かなくてもちっともかまわない
   秋の静寂の中では
   わけもなくそう思う
   もうすぐ
   おがくずに磨かれたまっさらな明け方
   めざとい光に追われ
   みーつけた、と指さされるのだろうか
   それを希望などというのだろうか
   あしたまた?
   あたました?
   あたしまた?

 終連には思わず笑ってしまいましたけど、ちゃんと意味は通じますね。漢字で補助するのでしたら、明日また? あたま下? あたし又? とでもすれば良いかもしれません。作者が本当は「ナメクジ」だったとは知りませんでしたが(^^; 「このまま/ずっと目が開かなくてもちっともかまわない」という開き直りも「おがくずに磨かれたまっさらな明け方」という比喩もおもしろい。「希望」ということについても考えてしまいますね。阿蘇詩のひとつの局面を描いた作品と受け止めました。




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