きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

  kumogakure  
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科

2003.10.26(日)

 衣類にはあまり拘らない方なんですが、今日は真面目に買いに行きました。スーツをきちんと着て出張しろ、と営業担当者から言われてしまったんです。ブレザーにネクタイという格好が好きで、そんなスタイルで出張し続けてしまいました。出張先は業務委託会社が多く、いわばこちらが監督する立場ですから気楽に考えていたんですけど、営業担当者からすればそれは失礼になるのではないか、というものです。それは判りますから、じゃあ真面目に買うか、となった次第です。
 もちろんスーツは何着か持っていますけど、実はキツクなってます(^^; Y体だったのがしっかりA体になっていて、ちょっとガッカリです。でも、着てみると楽。こうやって男は肥満していくのかな。



  詩誌『蛙』7号
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2003.10.25
東京都中野区
菊田 守氏 発行
200円
 

    水車
     ―鷺宮小学校    菊田 守

   きょうも
   陽のひかりを浴びて
   くるくるまわる水車
   桜の樹の下で
   水をゆっくりと受けとめて
   受けた水をしっかりためて
   水をちからに変えて
   そっと空間へと解き放つ
   くるくるとまわる水車

   見えない時間のながれを
   目に見える水の流れにして
   くるくると水車はまわる
   桜の樹の下にたたずむと
   さまざまの思い出がこころに湧いてくる
   −−さまざまの事思い出す桜かな 芭蕉
   −−散るさくら残るさくらも散るさくら 良寛
   亡き母の姿と
   私の生きた生涯のかなたから聞こえてくる声

   春は白い蝶のように舞う
   さくらのはなびらをいっぱい浴びて
   秋は黄蝶のように舞い踊る
   さくらの紅葉をはらはらと受けて
   なにごともないように
   くるくる くるくるとまわる
   水車

 「鷺宮小学校」は作者の近くの小学校だと思います。そこに「水車」があるのでしょうね。田舎の小川に懸かる水車ではなく、大都市の小学校の水車。新鮮なイメージが湧いてきます。
 しかし、何処にあっても水車は水車。「見えない時間のながれを/目に見える水の流れにして」、「さくらの紅葉をはらはらと受けて/なにごともないように/くるくる くるくるとまわ」っています。本質とは何かということを考えさせてくれた作品でした。



  詩誌『海嶺』21号
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2003.10.20
埼玉県さいたま市
海嶺の会・杜みち子氏 発行
300円
 

    金魚    植村秋江

   水槽の中でお腹を見せて金魚が浮いていた
   新しく買いなおしても やはり浮いた
   水の管理 餌の管理
   教えられたとおりにやった つもり

   犯人は 他ならぬこのわたしだった
   見映えにこだわって
   ガラスの水槽に白い石を敷いた
   その石から強いアルカリ成分が溶け出して
   pHを上げていたのだった

   金魚はどこから来たのだろう
   あのひらひらゆれる尾びれ胸びれ
   どんな遺伝子が作り出すのだろう
   私の金魚は
   カーバイドの匂いの立ち込める夜店の
   うす灯りに照らされた平たい水槽にいた
   ベソベソと たあいもなく破れてしまう紙の網で
   息をつめて掬いとった記憶
   おもいは その先へはとどかない

   ひとの勝手な思惑とはうらはらに
   はらうらを見せて水底から浮上してくるもの
   気づかぬふりして
   わたしは また夜店に出かけていく

 第2連では、そんなこともあるのかと驚きましたが、作品として重要なのは最終連だと思います。特に「気づかぬふりして/わたしは また夜店に出かけていく」というフレーズは人の身勝手さの喩、あるいは社会構造の矛盾の喩として読めるのではないかと思います。「犯人は 他ならぬこのわたしだった」というのは何も「金魚」に限らず、社会生活上の意外な場面での本質であるのではないか、そんなことを考えさせられた作品です。



  詩誌『環』110号
    kan 110    
 
 
 
 
2003.10.23
名古屋市守山区
「環」の会・若山紀子氏 発行
500円
 

    地下鉄の夜    鈴木哲雄

   ホームに入って来たその車両には
   夜の十時を過ぎて
   なお三十人ほどの客が乗っていた
   それぞれに座席で足を組んだり
   吊革にとまって友人と話したり
   扉口に背をもたせかけたりして
   ふだんの光景と変わらない
   私は席のひとつに腰をおろし
   ゆっくり読みかけの雑誌を開いた

   だが
   何か落ち着けない
   奇妙な気配が流れてくるのだ
   目をあげると
   前の席で岨噛を続ける老人の口が
   ときどきラクダの口に見えたりする
   酔ってふらついている中年男は
   顔の半分がマントヒヒである
   カモシカの眸で遠くを見つめる若者がおれば
   鷺の脚をすらりと伸ばした少女もいる
   十指を組み
   カニの鋏にしたり指に戻したりしている女は
   どんな人生を歩いて来たのだろう

   そう言えばこの車両の横腹には
   キリンやパンダやトビウオらの絵が
   カラフルに描いてあった
   ひょっとするとここは
   人間ばかりでいることに疲れた者たちが
   自分のなかに棲みついている動物を
   自身の肉体に呼び出し
   こころのバランスを取り戻す場なのかも知れない

   窓に映った私の顔にも
   いつの間にか口の端からイノシシの牙が二本
   尖頭を出していた
   六十余年 必死に人には秘してきたその牙を
   私は気づかないまま車内の人たちに
   見せていたのだ

   私は両てのひらで牙を包み
   降りる駅が来ても席を立たなかった
   終着駅からまた折り返し
   ついに電車が車庫入りするまで
   乗りつづけた

 「自分のなかに棲みついている動物を/自身の肉体に呼び出し/こころのバランスを取り戻す場」としての「地下鉄」。発想がおもしろいですね。しかもそれは悪い意味での獣性を言っているのではないところに作者の独特な視線があると思います。最終連で「降りる駅が来ても席を立たなかった」というのはその発現だろうと言えましょう。人生とは、そうやって「ついに電車が車庫入りするまで/乗りつづけ」るものなのかもしれないな、と感じさせてくれた作品です。



  木津川昭夫氏詩集『禁猟区』
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2003.10.26
東京都新宿区
土曜美術社出版販売刊
2200円+税
 

    城の形が美しいのは

   城の形が美しいのは
   攻められたり
   瑕
(きず)ついたりするからだろう

   濠
(ほり)には 水草がしげり
   山椒魚が棲み
   水草には謀反
(むほん)の匂いが漂う

   白壁は闇をはらみ
   暴君の冷笑に
   蝉たちの内臓はとけて滴る

   城の内部に乱脈が生きる
   一筋の血が奔騰し
   巨木は倒れよ! と騒ぐ

   城の形が美しいのは
   築いた人々の忠節が
   消されてしまうからだろう

 著者の13冊目の詩集だそうです。3部構成で「T.禁猟区」「U.エデンの秋」「V.たまご奇譚」となっています。Tは1988年訪米時に想を得たもの、他は象徴詩やシュールレアリスム的手法の詩が多い≠ニあとがきにありました。
 紹介した詩はUに収められている作品です。城を見るのは私も好きなのですが、こんなふうに見ることはありませんでしたね。特に最終連の「城の形が美しいのは/築いた人々の忠節が/消されてしまうからだろう」という見方は新鮮です。モノの見方の多様さを教えていただいた作品です。



  木津川昭夫氏著『生と変容』
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詩論・エッセー集(1)
2003.10.26
東京都新宿区
土曜美術社出版販売刊
2500円+税
 

 1988年から2002年にかけて東京新聞、埼玉新聞、信濃毎日新聞、北海道新聞など、さらに『詩と思想』や同人誌の載せた詩人論・詩論・エッセイが収録されています。詩集は前出のように13冊を出版しているのですが、散文集としてはおそらく初めてではないかと思います。その意味でも木津川昭夫という詩人研究には欠かせない1冊だと云えましょう。
 詩人論では私も懇意にしていただいている詩人が多く登場しています。鎗田清太郎、西岡光秋、狩野敏也、天彦五男、故・高橋渡、故・赤石信久、今辻和典、故・加藤幾惠の諸氏には薫陶を受け、長島三芳、堀内幸枝、松本建彦の各氏には拝眉の栄に浴しています。また、時代が違っていますのでお逢いしたことはなかったのですが、更科源蔵氏、真壁仁両氏は気になる存在だったものの詳細が知れず、本著でようやく全体像が浮かび上がった次第です。
 知っている詩人と作品を思い浮かべながら詩人論を読むのは、その詩人をより身近に感じ、高名な詩人の論ではその人間像に迫ることができたな、という思いを強くしています。木津川昭夫研究という本流もさることながら、他の詩人研究の補足という側面も見逃せないでしょう。日本現代詩人会会長の渾身の1冊です。




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