きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり

  kumogakure  
 
 
「クモガクレ」
Calumia godeffroyi
カワアナゴ科

2003.10.28(火)

 本社の営業担当者が来て、15時から17時半まで打合せをしました。懸案事項があって、長引けば21時頃までの打合せを覚悟していたんですけど、経過が順調なことが判って早く終りました。私も仕事が一段落していて、じゃあ呑むか!ということになりました。
 駅前の行き着けの焼鳥屋に行ったんですけど、だいぶ呑みましたね。日本酒は3合を限度にしていて、よほど体調が良くて気分が良いときは4合までと決めているんですが、、、4合までいっちゃいました(^^;
 仕事の上で呑むのはあまり好きではありません。でも、気の合う仕事仲間なら仲間うちなんですね。酔いもさわやかでした。



  隔月刊詩誌サロン・デ・ポエート246号
    salon des poetes 246.JPG    
 
 
 
 
2003.10.30
名古屋市名東区
中部詩人サロン・滝澤和枝氏 発行
300円
 

    道中    滝澤和枝

    呑気屋というのれんが じっとたれ下がっ
   ている昼下がり いつの間にか 子供の手を
   引いて歩いていた とぼとぼと いや ほど
   ほどと 歩いていた
    長い間歩いたような気がしたので 不憫に
   思い 子供の手を離すと 子はもうテコでも
   動かない 泣きもせず 笑いもせず真直ぐの
   目で見送っている おかっぱ頭の 目と口が
   素直に並んでいる女の子
    小さくなっていく子を背中で見ながら歩い
   ていくと 手持ち無沙汰になった手が しき
   りにものを拾いたがる
    哲学書を拾うと ライオンが
    金もうけの本を拾うと 描が
    エロ本には 男が付いていて
    生ものはいらないと断っても ほえたり
   すねたり さわったり 手に負えないので
   餌もやらずにいると 後も見ずに さっさと
   どこかへいってしまった
    両手を高く上げて これで面倒な事にも
   巻き込まれまい 賢くなったものだと得意に
   なって歩いていくと 誰に脅されているのか
   と警察官が寄ってきて聞く ヤジ馬がわいて
   きて 道を塞ぐ
    仕方がないので手のひらを返し 返し 阿
   波踊りをしてみると 何故かとてもほめられ
   て ヤジ馬までも踊りだし みんなで踊れば
   怖くない 面白い 面白い などとはやした
   てる
    おなじアホならおどらにゃ そんそん
    踊るのも損得のうちと納得し 人並みに踊
   れるようになったと 気付いてみれば みん
   なは右に左に去っていき 誰もいない 踊る
   内股の足は縮んで 進めない
    えらいやっちゃ えらいやっちゃ
    掛け声は勇ましく 足はチビチビと 歩い
   ていく

 人生の「道中」を表現している作品だと思います。「呑気屋」と自嘲していますが「手持ち無沙汰になった手」で「哲学書を拾」ったり、「警察官が寄ってき」たり「踊るのも損得のうちと納得」したり、「気付いてみれば みん/なは右に左に去っていき 誰もいない」ことに気づいたりするところを見ると、そうそう呑気に過してきた「道中」とは言えないのではないかとも思います。でも全体としてはしゃかり気になるところがなくて、かと言って諦念でもなく、やはり良い意味での「呑気屋」なのかもしれませんね。
 詩作品ですから実際のところとは無縁で構わないし、人生の作品と読まなくても良いわけですが、そんな印象がぴったりの作品だと思いました。



  詩誌『木偶』55号
    deku 55.JPG    
 
 
 
 
2003.10.25
東京都小金井市
木偶の会・増田幸太郎氏 発行
300円
 

    フィッシヤー マン ストーリー    川端 進

   ほら ごらん
   あれがぼくの釣り姿なんでしょう
   水も滴るとはよくいったもの
   ぼくはぼくの姿をみて
   うっとりしたね

   あの姿で
   川のなかほどに
   ああして立ちつづけ
   二十年釣りつづけている
   釣りつづけているのはいるのだが
   魚は釣れたのか釣れなかったのか
   釣りをしているのはぼくなのに
   釣れたという記憶が
   まるでない
   痴呆?

   何をいうか
   歳はとったが耄碌はしていない
   九九だって娘の名前だって言える
   家にだって間違えずにちゃんと帰ってくる
   (一度、真夜中にパトカーで運ばれてきたことはあったけどね)
   とりわけ釣り落とした鮎は全部覚えているし
   釣り落とした川だって覚えている
   (すごいとは思わない?)
   頭は短気だが切れたことはない
   躁と鬱をくりかえす
   日常だが

   それにしても
   夜毎枕元にあらわれる
   鼻の曲がった大きな鮎たちはなんなのだ
   見覚えのある鮎たちばかりでどれも尺以上だ
   あっ そうか あれはぼくが釣り落とした鮎たちだ
   釣り落としたのはほんのちび鮎たちだったのに
   あんなに大きくなっているなんて
   ことあるたびに吹きまくる
   ぼくの法螺を喰いつづけ
   育ってきたのだ
   あそこまで

   怪魚を飼育する
   趣味はないけれど
   育てたのは確かにぼくなのだ
   被害はあたえていないと思うのだが
   (釣仲間たちはどう思っているかしら)
   抹香鯨まで育てたという釣人もいたというから
   ぼくなんか可愛いものだ
   釣人どうしの天狗話
   だからね

   ほら ごらん
   あれがぼくの釣り姿
   相模川や酒匂川や狩野川
   ときには伊南川や魚野川や那珂川や小国川
   川から川を股にかけ
   立ったことのある
   釣り姿だ
   釣り上げるより
   釣り落とすほうが多い
   釣り人生だが
   見ていろ
   今に
   釣り落とした奴らことごとく
   釣り上げてやる
   夢の中でね

 作者は今号から新たに加わった方だそうです。私は釣をやらないのですが、ユニークな作品で、楽しみました。「釣れたという記憶が/まるでない」「とりわけ釣り落とした鮎は全部覚えている」「ことあるたびに吹きまくる/ぼくの法螺を喰いつづけ/育ってきたのだ/あそこまで」「釣り上げるより/釣り落とすほうが多い/釣り人生だが」と自らを狂言回しにしていますが、まったく嫌味がありません。「フィッシヤー マン」というのは本来そういうものなのかもしれませんが、やはり作者の人柄がにじみ出ているのではないかと思います。今後のご活躍に期待し、またおもしろい作品を拝読したいものだと思っています。



  詩誌『複眼系』33号
    fukugankei 33.JPG    
 
 
 
 
2003.10.25
札幌市南区
ねぐんど詩社・佐藤 孝氏 発行
500円
 

    鳥と梯子の上の女    佐藤 孝

   本のリサイクル・ショップでピカソの画集を買った
   ケースに印刷された「鳥と梯子の上の女」が、光をにじみ出している
   テーブルの前にたてかけて夜も昼も、ずっと見つめている
   毎日、見ているが素晴らしさは少しも曇らない
   ほんのりと、やさしさが虹のように伝わってくる
   フルーツを盛上げたような空間に
   バラが花びらをサクッと割る瞬間の喜びがあふれている
   どこへつづく梯子なのか光の鈴を降らせつづけ
   甘味な水密のまるい胸に小鳥を抱こうとしている

   「忘れ物をした!」と、突然ピカソが絵を取りに来たらどうしよう
   心配だ!

 最終連が印象的な、おもしろい作品だと思いました。第1連では「鳥」「梯子」「女」が同列になっているように見えて、じつは段々と「女」に焦点が絞られているのではないでしょうか。だから「取りに来たらどうしよう」、「心配だ!」となるのではないかと思いました。実際のところは純粋に「絵を取りに来たらどうしよう」なのかもしれませんが、そんな読み方をしてひとりで楽しんでいました。



  個人詩誌『みっきー』3号
    mikkiy 3.JPG    
 
 
 
2003.10.1
東京都練馬区
みっきー舎・尾崎幹夫氏 発行
非売品
 

    私の元の家の……    阿賀 猥

   1 私の元の家のカラコの部屋

   合計7室があったが、一室には幽霊のカラコがいるので、
   実際に私が使っていたのは6室だけだ。昔は幽霊はいない
   とされていたので、そのことは無視して進んだのだけれど、
   今のように現世が心もとない時世、どちらかというと幽霊
   の方に力点かうつってくるわけで、カラコの部屋も省くわ
   けにはいかない。


   2 私の元の家の立派な鳥

   私の元の家には、今は非常に立派な鳥が住んでいて、私達
   はその鳥を尊敬しなければならないことになっていた。腹
   のあたりは黄色い羽根、背が、グリーンとオレンジ。真紅
   のトサカかなびいていて、全体として、複雑な色合いで美
   しかった。


   3 私の元の家の女神

   私たちは、日曜日には家族揃ってその元の家のその鳥に、お
   辞儀をしに行く。礼拝の時のように何回もお辞儀をする。
   帰る道すがら、あのお辞儀の仕方ではまずかったのではない
   か? 地にはいつくばり、彼女の足に接吻をするくらいでな
   いと駄目ではなかったのか? あの程度ではむしろ彼女は怒
   り狂い、私たち家族に危書を加えようとするのではないか?
   など際限もなく悩み苦しみつつ歩いた。

      (私たちは這うように歩行する 地を這う虫のような
       蛇のような歩き方 狡猾で品がなく抜目もなく た
       だ意地汚く浅ましい歩き方 呪われた亡者のような)


   4 私の元の家の犬のカムイ

   愛犬カムイからの電話は、複雑を極めた。私はそのほとん
   どを理解できなかったが、意外にも、完璧に理解したよう
   なそぶりで応対した。そうして胸を張った。
   ――犬語が分からないでどうする。アタシは万物の長では
     ないか!

 独立した四つの作品としても読めますが、私は最終連の「アタシは万物の長ではないか!」という言葉に全てが収斂していくように思います。「幽霊」も「鳥」も「女神」も「犬」も、「私の元の家」に関するものですから、そこを離れた今は「胸を張っ」て「アタシは万物の長」と言っているのではないでしょうか。そういう意味でこの作品は1〜4を通して読まないといけない、とも思うのです。読みが浅い気がしますが、そんなことを感じた作品です。




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